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私の一言コメント、俺にも言わせろ、応援コメント、そうなんだコメント

2023  NEW ハンガリージプシーツアー2023 夏 in Nagyecsed   根岸千春

2020   増永先生との旅 トルコミリア編   JJRohita

          ロマフェスト・ジプシーフェスティバルに思う 最終回になる!!!?   coco鮎美
           
FaRida❤ロマフェス後記

2019 ジプシーの父 、増永哲男さん Marika Bajramovska

          DHOAD ドード・ジプシーズ・オブ・ラージャスターン  coco鮎美


2018 ロマ研のこの20年とジプシー  根岸千春(NPOロマフェストJAPAN幹事)

 

2017 見ました!GYPSY COLINDA (クリスマスキャロル) 堀川能與
 

2017 かぶり付きがお薦めだ セルビア民族舞踊愛好家 長江 勝

2016 オンドラーシュが来る。あのオンドラーシュが! チェコフォークダンス愛好家 田中すみ子
 

2016  重厚に大地から 増永哲男

         名人と言われる踊り手からせられる「格好よさ」  ハンガリー民族舞踊研究家 (踊り部代表) 神谷 孝
         少ない人数の音楽家とは思えないほど豊かな音楽に包まれて踊る ハンガリー舞踊愛好家 柴田正宣
         徐々に高まるダンサーの熱気は観客を巻き込み心躍る熱狂へと導いてくれる ハンガリー舞踊愛好家 土香代表 尾崎 清博

         ハンガリーを必死に追い続けて来た事が今の私の民族舞踊活動の原点 ヴァラシュカ 代表 財原和彦

2015 Dhoad Gypsies From Rajasthan  Coco Ayumi

          5カ国ロマフェストジプシーキャラバン NPOロマフェストJAPAN代表 増永哲男

2014 クロアチア国立ラド民族音楽舞踊団 LADO 増永哲男
 

2013 LADO公演によせて 大村エリ

          マケドニア・フォークロール原風景 増永哲男

2013 お喋りの声も、庭先に咲く花の色も、美しいハーモニー 大村エリ
 

2012 文字で記録を残すガージョ、文字を持たないジプシーは?

          目から鱗のジプシー 謎解き特別企画 NPOロマフェストJAPAN代表 増永哲男

    即興創造性、素で地を行く自由さ 桐原良子
    チンゲララーシュ(チンゲリ)徳元裕子
   『ジプシーってどんな人?』根岸千春

 

2012 「ルチニッツァ、ルチニッツァ」 スロバキアダンス研究会クラスナ・ホルカ主宰  大久保精一
 

2011 フィナーレ公演準備中に大きな地震、ジプシーたちは泣きました、そして祈りました。
     交通移動不能、それでも3名のお客様が、、、

     出演者も観客も涙、涙の感動コンサート、さよなら パーティ

2011 ROMAFESTに恋して Ⅰ 徳元裕子 (NPOロマフェストJAPAN幹事)

          ROMAFESTに恋して Ⅱ 徳元裕子 (NPOロマフェストJAPAN幹事)

          ROMAFESTに恋して Ⅲ 徳元裕子 (NPOロマフェストJAPAN幹事)

2010 コロ舞踊団を迎えて 高市雄之(フォークダンス愛好家)

           コロに始まり、コロに終わる 増永哲男
 

2009 ハンガリー民族の芸術天性 増永哲男

2008 チェコは歴史上民族的文化的に、ボヘミア(地元はチェヒィ)、モラヴィア、スレスコの3地方 鵜沢敏子

2007 ヘンリック・ドゥダのクラシック ポーランド 増永哲男

    圧巻のクラコヴィアク マズールFD研究会 菅沼泰彦

    ポーランドの踊りの魅力 川上雄也 ポーランド民族舞踊研究会 「彩」

    魅力あふれる国「ポーランド」とスゥォヴィアンキ 門間 巌 仙台ポルスキータンツ研究会  
    踊る天国 佐 藤 武 志
    スウビアンキ舞踊団を迎えて 片岡宣義 ネットマズルカ

    ポ-ランドの踊りに接する 吉田幸三 名古屋ポ-ランドダンス研究会
 

2006 芸術監督エルビン・バルガ氏の珠玉作品 増永哲男
 

2005 感覚伝承文化の極み 増永哲男

          生粋のジプシー、ほとばしる才能 NPO ROMAFEST JAPAN 理事 徳元裕子

          大きく花開け、ジプシー文化 NPO ROMAFEST JAPAN 副理事長 根岸千春
           第1回ロマフェスト・ジプシー・シンポジウム参加記 佐藤雪野

2004 ボスニア・ヘルツェゴビナ民族音楽舞踊団CAJAVEC 増永哲男

2003 日本ルーマニア友好百周年記念公演 ルーマニア国立ムレシュ民族音楽舞踊団 増永哲男

2001 ゼレジアル民族音楽舞踊団 東スロバキア

          ドゥルズバ民族音楽舞踊団 西スロバキア 増永哲男
 

2000 AND DROM、SZASZCSAVAS、4つの国立舞踊団によるハンガリアン・ジプシープログラム

1999 リトアニア国立民族音楽舞踊団 LIETVA 増永哲男

1997 マケドニア国立タネツ民族音楽舞踊団 TANEC 増永哲男

          マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さ 郷 成仲

          複雑なリズム、「ため」のあるリズム 民俗舞踊研究家 先崎廣伸

          マケドニア国立タネツ民族音楽舞踊団  先崎房枝

 

1996 ルチニッツァ 増永哲男

          スロバキアにナズドラビエ 山 田 雄 一

1995 ハンガリ-国立ブダペスト民族舞踊団 増永哲男
 

1994 続・ボス増永哲男 小 林 岳 丸

          スロバキア国立スルク民族舞踊団 SLUK フォークロールレポーター 増永哲男
 

1993 ボス・増永哲男 小林岳丸 1993.01

          ドクルトゥのメロディ 御徒町フォークダンス研究会 佐野政治
 

1992 ルーマニア国立マラムレシュ民族舞踊団 相互交流を基本にした公演 増永哲男

 

1991 Cプロに期待 民俗舞踊研究家 先崎広伸
           一歩一歩実現ヘ 御徒町フォークダンス研究会 佐 野 政 治

           フォークロールレポート公演のきっかけ 東欧民族舞踊団の危機 増永哲男

私の一言コメント、俺にも言わせろ、応援コメント、そうなんだコメント

LOLA 長江捷
コレオグラファーの巧みなテクニック
ビア民族舞踊愛好家 長江 勝

 2010年のアンサンブル"KOLO"以来待望の本格派セルビア民族舞踊団の来日である。今回来日の"Ivo Lola Ribar"は、1944年設立の歴史ある民族舞踊団であり、ベオグラードに本拠をもつセルビアではアマチュアNo.1のアンサンブルである。愛称"LOLA"として親しまれ、メンバーの多くは舞踊を専攻する学生であり、生きのいい優秀な若者で構成されている。
 見どころは何といってもコロー舞踊特有の足裁きにある。それを一言で形容すれば、セルビア語のSuptilan(英語Subtle細かい)ということであろう。それが舞台上できれいに揃った時、輪の踊りの素晴らしさが一層引き立つことになる。これがまさにコロー(輪舞)の第一の見どころ、醍醐味である。

 セルビアの民族舞踊を地域分類すれば、①Vojvodina ②Western serbia ③Central Serbia(Sumadija) ④North Eastern Serbia ⑤South Eastern Serbia となるが、踊りの地域特性の他に、それぞれに音楽、民族衣装、靴(Opanci)等に特色があり、その違いを堪能するのも見どころの一つである。

 コレオグラファーの巧みなテクニックを舞台から読み取ることができる。多くの演目は、村の踊りをステージ用に結合してコレオグラフしてあるが、例えばその結合部にどのような技巧を凝らしてあるのかを見抜くのも面白い。踊りが、音楽より1小節先行して次の曲に進んでいることもあり興味深い。

 自由席ならば、かぶり付きがお勧めだ。          

   

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coco鮎美​ 2021/02/16
ロマフェスト・ジプシーフェスティバルに思う

< 人間である事すべてを祝福するコミュニティ>

なにやら...最終回?!の噂が立っている、

記念すべき10年目のロマフェスト・ジプシーフェスティバル。この投稿は、集客目的ではありません。

勇気を持ってこの投稿をする理由には、

フェスティバル開催、10周年を記念して、今、なぜこのフェスティバルが開催されて来ていたのか、知ってもらいたい事があるからです。

今回、このフェスティバルに関わってくださり、わたしが大変お世話になって来た方々を、投稿を読んでいただきたいのと、今までの感謝を込めて、tagさせていただきました。

心から、10年続いたフェスティバルとわたしに関わってくださり、誠にありがとうございました

(コロナ禍のいろいろな事情があると思いまして、他団体の仲間の出演者は敢えてtagしませんでした)

さて....

今回、主催者から許可を得て、イベントが開催される事をお伝えします。

3/6 (土)に15:00〜18:00の3時間に縮小、席も会場の半分に、コロナ感染拡大防止対策を、会場となる国立オリンピック記念青少年総合センターのルールに従い開催されます。

去年1年は、コロナの感染拡大防止対策としてリアルイベント出演を自粛したわたしですが、今年このフェスティバルには出演します。むしろ、フランス移住出来なかったおかげで、今回、わたしも出演出来ます。

わたし自身の想いはもちろん、

地球の文化伝承に関わるこのフェスティバルの主催者の話、

日本人が関わるフェスティバル発足に繋がる話をめちゃくちゃサクっと綴りました。

(今回のフェスティバルの様子が知りたい方はDVDで鑑賞も4月以後可能です。3/6に来場し、閲覧を希望の方は、全指定席で調整がありますので2/19までの対応になります。お申し込みに関する注意事項が1番下にありますので、必ずお読みになってください。よろしくお願いします!)

-----本題-----

みなさんはロマフェスト・ジプシーフェスティバルをご存知でしょうか?(フェスティバル概要は1番最後に載せました)

何故、ジプシーとして生きていない日本人が踊っているか、ご存知ですか?

主催者の増永哲男氏は、日本で学生時代からフォークロアダンスを踊り、日本の民俗舞踊の知見も深く、何十年にも渡り東ヨーロッパのフォークロア界の国立舞踊団を日本に招聘して日本ツアーを行って来た方です。日本中のフォークロアダンスをする日本人のためのフェスティバル「ワクワク交流会」も行っています。日本のフォークロアダンス界では知らない人はいないと言っても過言ではありません。

1年を通して、日本と東ヨーロッパを何度も行き来し、現地にも家を持ち、現地のジプシーたちや人々と暮らしながら、さまざまな踊りと音楽の文化(民俗)を共にする人生を送って来た方です。

日本にも、踊りを映像に収める舞踊専門の株式会社ビデオテクニカを設立しています。

増永氏はある時、その年の日本ツアーに招聘する国立舞踊団といつもの準備をしていたところ、心うたれる音楽と踊り、生き方をしていた「ジプシー」たちと出会いました。

これが、日本に東ヨーロッパのジプシーたちを招聘し始める始まりです。この出逢いのドラマも感動的ですが、また違う機会にご紹介します。

それでは、

-------何故日本人が関わるようになったのか?

それは2011に起きた東北地方太平洋沖地震が大きく関わっています。

3/11にルーマニア・マケドニアから招聘されたジプシーたちが、ちょうどロマフェスト・ジプシーフェスティバルの本番前で、会場で地震を体験していました。体験したことのない地球の揺れ、大泣きしたり、恐怖に慄きながらも、彼らが何をしたかというと、

「これでも開催してくださいますか?!」と、増永氏たちの興行の長年常連客で連絡をして来た、何百人のお客様の中から、

歩いてでも行きたい!という3人のお客様の為に、

会場の外で演奏と踊りを短く披露したのです。

ずっと楽しみにしていて、歩いて会場に来た3人のお客様に、

スピーカーも照明も使わない

外の広場で、

笑顔で披露したジプシーたち。

そこにいることがすべて

生きている事

その時の彼ら・彼女らの音楽と踊りを愛している姿、

生きる為に芸能を職能にしているジプシーたちのチカラ、

仕事ではなく、

生きているから歌い踊り演奏をし、

感情を表現するひとつとして、

演奏や歌や踊りをするものもいる

悲惨な事が起きた3/11

しかし、生きているから、

そんな感動を、その日に体験したみんな。

増永氏は思ったそうです。

「日本にもいるのではないか?こんなジプシーみたいな表現者たちが」

これが2011の10月に、日本人のダンサーで

ロマやジプシーというもの、

そのルーツを研究したり、愛しているダンサーが参加するフェスティバル第一回目が開催されたきっかけになります。

-----

最後に、

わたしにとってのロマフェスト・ジプシーフェスティバルの話です。

この10年で、わたしにとってこのフェスティバルは、単なるイベントではなくなりました。

フォークロアとグローバリズム

人間の信念に、文化形成

今まで1人で旅をし、身をもって体験してきたものを、2011このフェスティバルにお声がけされた事から、ありのままにそれを観て会話してくれる、増永氏と、同じ志を持つ仲間たちに出会えました

(まさか、フェスティバルを通して、人生の伴侶にも出逢うとは思ってもいませんでした)

「人間とは何か?」を

体臭や

汗や

涙や

声や

想いや

感情や

たくさんのさまざまなエネルギーのドラマの中で、わたしは知って行きました。

日本、ハンガリー、フランス、インドで

この10年、主宰の増永さんとわたしの主宰するEthno-Exotica Vaudevilleのダンスメンバーたちと人生を共にしながら、学んでいきました。

Romafestに関わるスタッフ、

ロマフェスに出演する仲間たち、

たくさんの教授や研究者の方々、

応援してくれる方々といる事で

「人間とは何か?」を知っていく事が出来ました。

この10年での人生ドラマは、

言葉を選んで定義し難いくらい。

ただ言えるのは、

ロマやジプシー、そのルーツを研究/愛している日本人を集めて、みんなで踊り合い、音楽を奏でて、語ろう!との想いを込めて、

日々私たちと関わり、

成長を促し、

自身の学びも深めながら、

日本人が関わるこのフェスティバルを発足してくれた増永哲男先生に感謝で胸がいっぱいです。

------閲覧ご来場申し込みに関する注意------

コロナ禍におけるイベント開催は、主宰側の対策と、参加側の対策すべての人の信念からなる行動の調和により成り立つものと考えています。

会場は必ず施設に入る前に、入館前の第一関門であるサーモグラフィーでの検温があります。

チケットお申し込みは、ほかのコロナ禍で開催されているイベント同様に自己責任でお願いいたします。

初めてロマフェストジプシーダンスフェスティバルにご来場される方は特に、

今回のチケットのお申し込みは、

コロナ感染拡大予防対策の一環として、身元を明らかにした状態を作ります。

お申し込み方法は:

必ず応援したい今回の出演ダンサーに直接連絡を取り、ダンサー経由での購入です

締め切りは2/20です

どうぞよろしくお願いします!

---------  フェスティバル趣旨  --------

文字で記録を残すガージョ(非ジプシー)の文字伝承文化に対し、文字を持たないジプシー(以降ロマと表記)たちは五感による表現により伝承してきました(感覚伝承文化)。

オリジナルなロマの表現にその土地のガージョのフォークロールを融合し、その土地に、その国に、独特のロマダンスがクリエイトされていきました。

だからロマダンスはひとつではありません。西アジアには西アジアの、アラブにはアラブの、バルカンにはバルカンの、ヨーロッパにはヨーロッパのジプシーダンスがあります。

ジプシーダンスの種類を正確に数えることはできませんが、大まかに民俗(フォークロール)地方の数だけは在ります。

このフェスティバルはそのロマダンスやスタイルを目指す、愛する、研究するダンサーが一同に会し、このコロナ禍1年の成果とジプシーダンスロマフェスト愛を発表します。 

NPOロマフェストJAPAN

代表 増永哲男

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coco鮎美ロマフェスト・ジプシーフェスティバルに思う
JJ 増永先生との旅 トルコミリア編

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増永先生との旅
トルコミリア編


何年前だったかな。。。
8年前。。?
増永先生と2人トルコのロマ達を求めて当てのない旅をしました。
その後にセルビアに入り、ハンガリーを経由してルーマニアに行った長い旅の一コマです。

イスタンブールの街中を2人で歩き続け、色んなところを訪ねロマ達の情報を集める増永先生といつもハラペコな私。
お金は全部増永先生に預けてるので買い食いも出来ない。
トルコのマーケットは魅力的で思わず「可愛いアクセサリーが欲しいです!」一気にショッピングモードに。そんな私に「見るだけにしないと」万年の笑みで答える先生。
旅の目的が違うだろと。。無言の圧力。しかもめっちゃ笑顔。

素直に(?)「はーい」と答え
増永先生について歩く私は飼い犬のよう。
増永先生はいつも目を輝かせ
人に訪ねてはメモを取り
場所を訪れてはメモを取り
電話を繋いでもらってはメモを取り
本当に凄い探究心で全力で情報を集めてました。
そして必ず、町の名前が出ればそこへ行き、人の名前が出ればなんとかアポを取りその人に会いに。
凄い行動力。その日のうちに即行動。

不思議な事に増永先生の周りには
すぐ情報が集まり、手助けしてくれる人が集まり、すいすいすーいと目的が達成されていく様子を目の当たりにして本当にびっくりした事を覚えてます。

必要な所には必要な情報が集まるんだなあ、増永先生凄いな、と、ちょっと目に見えない力の要素すら感じながら、、

お腹が空きすぎた私はボイコットを度々起こし、飯が食べたいと駄々をこね、レストランが嫌いな先生はよくロカンタで食事を取らせてくれました。

山盛りに取り分けてもらって「全部食べれるのか?」と心配する先生を横目にあっという間に空っぽに。
先生は調査に夢中になると、ご飯を食べずに調査し続けるので、食べれる時に食べておかないと次いつご飯食べれるかわからんぞの精神が養われ自分でもびっくりする量を平らげてました。
増永先生との旅で身に付いた変な技。つい癖で日本で増永先生に会っても物凄い量を食べてしまう。

そんなこんなでトルコのジプシーの村に辿り着き一通り探索。
そこはエディルネというジプシー達だけでコミュニティを作って生活してる所でジプシー達ばかり。(あたりまえ)
増永先生はまず何をしたかというと、突然散髪したいと言ってジプシーの床屋さんで髪を切ってもらってました。
その間私は床屋さんで孫娘のように待機。
本当ならジプシーの村についたのだからあちこち出歩きたくて仕方ない。もうソワソワが止まらない。それを体で表現して見せるも増永先生が「ここで待ってなさい」と。

何度も言われたその台詞。

私から離れたらダメだ、危ないから私の側で待ってなさいという意味で
それくらいジプシー達のディープなゾーンに入ってると言う現れ。
言葉の意味を深く理解し
ジプシー床屋さんの窓から外の様子大人しく眺めてました。
その瞬間に、日本でいくらジプシーダンスを踊ってても私はジプシーじゃ無いんだと感じる時。
逆になぜかそれがほっとする。

散髪の終わった先生は気持ち軽やかにジプシー達のお家を訪ね歩きます。
そして、ジプシーのボスの家へ。。。
日本でパフォーマンスをしてくれる子達をスカウトする為の交渉が始まりました。
コレは話すと長くなるのでここでは書きませんが雰囲気だけ。

雰囲気凄い。。増永先生本当凄い
先生がジプシーみたいだ!
ボス。。怖い!本当怖い!
先生!凄い!ボス悩んでる!
うわああああーー

そんな感じで第1回交渉が終わり
びっくりしたままイスタンブールへ舞い戻る。

一息ついてから、またイスタンブールを調査すると言っていたので先生をお迎えにお部屋に伺うと、「大変だ、歩き過ぎて痩せてしまった」とコーラを一気飲みしていた。(コーラなんか飲むより痩せた方が健康には良いのでは?)と思ったけど言わずに街中へ。もしかしたら言ったかも。


その時トルコにミリアちゃんが
住んでると情報が入り、すぐにアポを取りミリアちゃんと対談へ。
電話を切ってから秒で駆けつけて
くれたミリアちゃん。
トルコで見たミリアちゃんは
芸能人かと思うオーラを放ち
サングラスを外した顔はお人形のようで心から嫉妬に悶えたのを
今も思い出せる。そして今も可愛くて嫉妬する。

美人を前にニコニコの先生。
先生はわかりやすい。
増永先生がミリアちゃんにインタビュー。丁寧に答えるミリアちゃん。
ミリアちゃんを心から応援すると言った増永先生。その気持ちが嬉しいと答えるミリアちゃん。腹が減ってる上にあまりの可愛いさに嫉妬に悶える私。
3人の対談が終わりミリアちゃんとバイバイ。

その時に日本に戻ったらイベントやろうね!と約束した私達
ボヘミアン ジュイはこの日に約束された大切なイベント。
それはミリアちゃんのトルコでの修行を年1で日本で発表してね!
という約束のイベントでした。

毎年欠かさず繰り広げられた
ボヘミアン ジュイ
どんどん規模が大きくなり
イベント自体にファンがつき
2年前からは即日でソールドアウトする。
フライヤーを作っても配る前にソールドアウトしてしまうので家にダンボールに入ったままの印刷物。
もう私の手に追えないマンモスイベントになってしまいました。

今思えば
そこからミリアちゃんはどんどん活躍の場を広げ、もう本当に芸能人のよう。
可愛くて愛嬌もよく、そして礼儀もあり人情深い。信念もしっかりある。絶対どこか落とし穴があると思って長年別目線でミリアちゃんを調査してるけど欠点なんて見つからない。
そして今もまだ絶対何処かに落とし穴が!!!と調査は続いてる。

さぞかしトルコでモテモテの逆ハーレム生活をしてるのかと思いきや。
トルコに住んでいる間ロマ達の踊りに感銘を受けた6年前の気持ちのまま今でも修行を積み続けてる。
絶対嘘だ!と嫉妬心から何度も疑ったけど彼女のロマダンスを見たらそれが本当なんだと認めざる得ない。
それくらい彼女はロマに近い踊りを見せてくれた。

そんなミリアちゃんから先日人生で初めて自分の気持ちをSNSに載せました。と連絡がきました。
それを読んで私もミリアちゃんについてちょっと話せる事があると思って増永先生との旅も絡ませ書きました。ミリアちゃんリスペクトの気持ちから書いてます。

8年前の私達はまだ初々しくコレからのことを沢山想像して2人でだけで盛り上がったあの日の約束のイベント。
ボヘミアン ジュイ
日本の素晴らしいダンサーさん達にご出演頂き数えきれないパフォーマンスを見せてもらってきました。
憧れの人に衣装を作らせてもらえる幸せな企画まで誕生しそれに燃えてます。

トルコで修行を積んでるミリアちゃんのパフォーマンスは毎年ボヘミアンジュイで見れます。
毎年お見せできるように私も頑張ります。

可愛い可愛いミリアちゃん
コレからも応援してるフリして別目線調査続けます。
調査の為に私はミリアちゃんが開催してるオンラインレッスンを受けてます。
そのレッスンはミリアちゃんの研究結果が詰まった本格的なターキッシュロマの細かく噛み砕かれた濃厚な内容です。
ミリアちゃん自身も熱く語ったターキッシュロマへの思いを皆さんも体験してみてください。

次は増永先生と初めてのルーマニア編なんか書いてみようかな。

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DHOAD ドード・ジプシーズ・

オブ・ラージャスターン 
                    coco鮎美

人間は、「幸せ」だと真に思う健全な人生の為には、
心を通わせられる人間関係があることが大切だ、
と言われています。

 Rahis Bhartiが日本との繋がりを築いたのは、2013

にヨーロッパのジプシーフェスティバルに出演して

た時に出会った、ある日本人がいたからです。

その方は、東ヨーロッパ、 バルカン地方のロマ・ジプ

シーミュージシャンやダンサーを40年近く継続的に招

聘し、東ヨーロッパの国立舞踊団も45年、日本に継続

して毎年招聘をされている。

 大学時代よりフォークダンスをし、実体験から学び、日本の民族舞踊の知見も深く、日本のフォークダンス界ではレジェンドとして慕われている方。2013年にDHOADのファンになり、2015年に日本に初めて招聘し、26都市でコンサートをする「ロマフェスト5ヶ国ジプシーダンス・ミュージックフェスティバル」を開催されました。

 増永さんはDHOADの音楽的なクオリティだけでなく、ジプシーが旅立ったルーツである、北西インドのラージャスターニ伝統芸能を世界に保存しているラヒースの姿勢に感銘を受けたそうですそれは自身が、フィールドワークに精を出し、日本にロマ・ジプシーの芸能を広める努力をしてきた姿と重なったと語られていました。

 まさにこの方が、本日! 2019年2月の第2回Dhoad日本ツアーの主催者NPO Romafest 代表 増永哲男さんが、奥様とパリに到着しました。

 夢のある世界のお仕事の為、まだ公表出来ないのですが、ラヒースが現在インド初のテーマでディレクションをしている世界的なプロジェクトの応援に、増永夫妻は参りました。友情を越えて、家族の様な関係の3人です。世界的なエンターテイメントの仕事で、プレッシャーも多いですが、ゆったりと出来る親子水入らず?!な時間を過ごして欲しいですね。

 このプロジェクトの様子を、みなさんに早くお伝え出来る時が待ち遠しいです!

2019年7月17日 FBより

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coco鮎美 DHOAD ドード・ジプシーズ・オブ・ラージャスターン coco鮎美
メンスールの日本の父。 ジプシーの父こと増永哲男さん

メンスールの日本の父。

ジプシーの父こと増永哲男さん

Marika Bajramovska    2019.05.20

増永さんの話は本当に面白い!!
なぜかって、30年以上に渡ってジプシーに寄り添ってきたから。

 

 増永さんはジプシーの音楽や踊り楽しい面を主に紹介しているけれど、実は私よりも誰よりもジプシーの差別問題などマイナスな面もジプシーと共に受けてきました。
 ジプシーとの国境越えは毎回苦労の連続です。どんなに書類の準備が万端であっても国を出る許可をもらえないという何かしら問題が起きます。
 増永さんにとって家族同然のジプシーへの対応にどんなに苦しい思いをしてきたことでしょう。 そんなときも落ち着いてゆっくり時間をかけること2時間。このときは足りない書類をファックスしてもらい事なきを得ました。
 しかしこんなことは序の口。30年以上このようなことを繰り返し、ジプシーと共に心を痛め涙を流してきたのです。

 そしてジプシーだけでなく、非ジプシーの家族ともご近所付き合いがあるので彼らの思いも痛いほど理解しています。
 ある日の非ジプシーのご家族との会話。寒い冬にも、関わらず近所に住むジプシーの家のドアが無いことに気付き、ドアをプレゼントしたそのご家族。これで冬が越せるだろうと思った矢先、数日後またドアが無くなっていたと。なんと、あまりの寒さにドアを薪がわりに燃やしてしまったと。だから私達はジプシーに同情することが出来ないのだという非ジプシーのご家族。
 お金がないのだから燃やしてもしょうがないと思う人もいるでしょうが、お金がなくても有るものは大切にし、薪を拾いにいくジプシーもいます。
 
 増永さんももちろん同じような体験をしていますが、見捨てたことはありません。私だったらもういいや!と逃げたしてしまうと思うし、何人もの外国人の人がジプシーを支援したいとやってきては去っていったそうです。

 ただ数回ジプシーの元へ訪れるのではなく、一つ一つの家族とずーっと長く付き合いを続け、ある家族とは赤ちゃんの頃から少年少女期を経て、結婚、出産、子供が増え、またその子供が結婚し…この人生の歩みを見守り続けているのです。 時には名付け親になったり。 メンスールもその1人で、他にも何百、もの家族が増永さんに見守られています。大袈裟ではなく事実です。


 だからこそ、ヨーロッパ各国で功労賞を授章しまくっているのでしょう。(増永さん自分で言わないの。そこもすごいところ。大きな舞台で実際に授章されているところを見たときは涙がちょちょぎれてしまいました。)

 ではなぜ増永さんはそんなマイナスな話をしないのか。
 事実を隠したいわけではありません。知りたければ増永さんはいくらでも話してくれますよ。
 でもジプシーって可哀想!応援しなきゃ!って紹介でジプシーは本当に喜ぶのでしょうか?少なくともメンスールは嬉しくないと実際に言っています。
それよりも。ジプシーの才能って世界一じゃん!ジプシーミュージック、ダンスって、なんて人を幸せにしてくれるんだろう! え、でも何、何?環境あまり良くないの?じゃあ応援してあげよう!ってほうが何百倍もジプシーを愛した上で応援したくなりませんか?


 マイナスな事以上に愛すべき愛しいものが彼らにはたーくさんあるし、そして俺達の素晴らしい芸術を見せつけてくれ!というジプシー達の熱い思いを増永さんは痛いほど理解しています。

 

 ジプシーを研究するのは増永さんに密着し取材するのが、何よりも近道だと思います。私が映画作る人だったら速攻取材をしたい。うわべだけでなく奥の奥をみることが出きるから。
 

 口ではあなたは私達の家族よって言われても、非ジプシーで、まして家族以外でジプシーから心から受け入れられてるのって難関なんですよ。これは私がジプシーの嫁になって初めて解ったこと。

 ジプシーが認めるジプシーの父・増永さん。

大変熱く語ってしまいましたが…

えっ、身びいき?身内の持ち上げ?と思われるかもしれませんが、それだけではありません。増永さんは、私がジプシーになりたいんです😭!という夢を叶えてくださった恩師です。16年前薄っぺらいジプシーの知識しかなかった私に、出し惜しみすることなく全てを見せてくださり、体験させてくれました。ホームステイさせてもらった行く先々で「増永さんの知り合いだから、あなたを大切にしてるのよ!」と。言われ過ぎて耳にタコが出来そうでした。

 夫であるメンスールと出逢えたことも増永さんのお陰です。

 そして結婚後に分かったことは増永さんの元で学んだ全てが本当だったということ。

 これは増永さん以外の研究家のお話が嘘だという話ではなく、どれも本当のことです!ただ、先日の超話題のジプシーイベントJai ho! Jzamo hătyalo!主催の1人COCO鮎美さんも言っていましたが、情報で溢れた現在、誰から情報を得るのか。これって本当に重要だと思います。その後の人生まで大きく変わることがあるから。

増永さんからジプシー人生のスタートを切ったことが私の人生の幸運でした。

 

だからこそ、私と同じようにジプシーになりたい!近づきたい!と悩める方にご紹介したいのです。 マケドニアジプシーの家族になれた私ですが、たった7年という期間。そんな私の話よりも、もっと沢山のことが知れますよ。

 増永さんの話を聞かないのは人生を損してるくらい。もったいなさすぎる。
というわけでたくさんの人に聞いていただきたいのです。
どうかたくさんの方に伝わりますように✨

​付録

私がいつも思っていること、残念なこと

2019年4月11日にFaceBookに投稿しました。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1149618458544613&id=100004894086435

なんだかなぁ。

外国人からみたジプシーについてのお話って、可哀想なことが圧倒的に多い。

 大虐殺、差別とかの話ね。

何でなんだろうと考えてみたんだけど、きっと、現地に行ってジプシーに英語か通訳でインタビュー形式でロマの虐殺や差別についてどうおもっていますか?なんてやり方で話を聞いているんじゃないかっておもう。

例えばいきなり外国人の人にあなたは広島、長崎の原爆についてどうおもっていますか?みたいな。

 聞かれたら絶対悲しい。とかあの仕打ちはやりすぎだった。って答えるよ。

でもでも普段からその事について考える人って極わずかでしょ。

 私なんて毎日メンちゃん、3人の子供、両親、マケドニアの、家族、仕事。自分の生活を守ることで頭がいっぱいだよ。

じゃあジプシー達は?

ジプシーも同じ。彼らの言葉を覚えて毎日一日中一緒に居てみれば分かるから。

 俺達はなんて可哀想なんだ。なんて話聞いたことないし。家族、仕事のことで手がいっぱい。

もちろん一緒にいて差別も見たさ。だけどそれに負けないくらい強いよ。

 しかもレストランでうちの長男と、メンちゃんの一番小さな弟が店で暴れてましたよ。その時にメンちゃんのママがボソッとつぶやいたのが、「これだからこのチガン(ジプシーのこと)って言われちゃうのよ」って。

またある日のメンちゃんと親族とのグループ電話。会話の途中で「だから俺達ロマ(ジプシーのこと)は大きくなれないんだよ」って。

差別を受けてる理由を知っているわけです。じゃあ、差別を無くしたいのなら本人が理由となる対応も改める必要もあるでしょう。

ジプシー皆が貧しいわけじゃないし。もちろん子供が川に入って何かをさがし続けていたり、車が通る道路にたって窓を掃除している人もいるよ。彼らの住みかはトタンで出来てボロボロだったり。

じゃあメンちゃん達はなんで大きくて綺麗な家にすんでるの?家族がお金持ちだから?

違います。メンちゃんいわく自分が小さいときは小さなワンルームにジジ、ババ、父の兄、その嫁、子供3人、パパ、ママ、自分。でヤギ、馬一緒に暮らしてて自分はヤギと寝ていたんだって。

メンちゃんの家族はミュージシャンだから仕事があるじゃーん!

なんてとんでもない。メンちゃんのパパはミュージシャンだけじゃなく、ゴミ拾い、遺体を運ぶ仕事、寝る間も惜しんで家庭を養いながら家を少しずつ大きくきれいにしてきたんです。

つまり努力をしてきた。

いまだに粗末な家にすんでる人の多くは父親は酔っ払って路上で寝ていたり。

もちろんそうじゃない人もいるでしょうが。メンちゃん達はこのような人達を非難することもあります。子供を使ってものごいとかするひと等に対して。

この辺の事情(ジプシーは他のジプシーについてどう思っているのか)はいつかメンスール家族と話してみたいと思います。

というわけで、ジプシーの研究をするなら彼らの言葉でずっーと一緒にいたほうがいいんではないかという提案です。

そういえば、ジプシーの彼と生活をともにしてきたフランス人の女性はジプシーの少女グループと同じ部屋で過ごし、彼女達は可愛そうだから一緒にいてあげるのー。って言ってたけど僅か1週間で私にもリミットがあるって少女達を避けていたのを思い出した。

これがジプシーの近くに住むガジェ(非ジプシー)の気持ちなのかしらと思ったり。

ジプシーとだけ生活をするのだけでなく、非ジプシーの人とも長く一緒に過ごして初めて差別問題を少しだけ語れるのではないでしょうか。

一緒にいて、普段のふとした瞬間に彼らがどのように生きているかが感じられますよ。

というわけで、私達も、私達のジプシーでつながってきた友人も、私をジプシーの世界に連れていってくださった増永さんも、私達が大切にしているロマフェストも、頑張っているジプシーを応募しています!

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堀川 能與Colind

堀川 能與 Yoshitomo Horikawa

2017年12月28日 21:21 · FBより

 5日間増永さんの後につかせていただき、サースチャーヴァーシュバンドの方々とのクリスマスキャロルを、すぐそばで、ほんとすぐ隣で見させていただきました。
 

 最高のバンドでした。今まで結構な数の演奏を生で聞いてきましたが、そのどれよりもすごい、比べてはならないとも思うくらい素晴らしい演奏でした。頭がじーんとする感動を覚える音楽を、バンドの方々の真隣で聞ける幸せは、後にも先にもこれだけな気もします。。深く、厚く、パワフルでエネルギッシュな演奏、何でこれほどまでに違うんだろ、と考えてもわからない、すごいものでした。

 増永さんにはたくさんご指導をいただきました。
村に訪問するということへの礼儀、村の方々への感謝、

フォークロアに関して、踊りに関して、研究に関して。
この村とこの村はすぐ隣なのにこんなに違うのか!とか、

ここの人達はすごく素敵だな、とか、

ここのジプシーとここのジプシーはこう生活や踊りが違うのか!とか、

ジプシーの人達のエナジーとか、

ジプシーの人達の音楽がかかったときの雰囲気とか、

ジプシーの人達の踊りの素晴らしさや熱感とか、
どんな生活なのか、

どんな料理を食べるのか、

どんな家にすんでるのか、
百聞も千聞も一体験に如かず、

ということを学びました。


 フォークロアは知らないこと、わからないことばかりで、今までどれ程知らなかったことが多かったか、勘違いや誤解があったかを知りました。

たくさん知ることができ、自分が全然知らないことを知りました。
だから次はこれをする!というのはまだ見つかってません。ゆっくり考えていきます。
自分が何ができるのか、自分がこれから踊りとどう向き合っていくのか、踊りは今後どうなっていくのか、日本で踊るということ、環境はどうなっていくのか、考え出したらきりがないですが、きりがないから考えていきたいと思います。

 サースチャバシュ・バンドのかたには、ヨージ!ヨージ!(僕の名前の略称ヨシがハンガリー人の名前のヨゼフの略称ヨージに似ている)と呼んでもらい、楽器を運んだりちょっとしたことを手伝わせてもらいました。
ヨージ!よかったよ!と最後にいっていただけたので、邪魔にはなってなかったのかな、とちょっと安心してます。

 増永さんについて回らせていただくのは、夏のツアー、秋の結婚式に続き、三回目だったのですが、回を経るに連れて増永さんのパワーとエナジーとに圧倒されます。四十才以上年上というのは嘘なんだと思います。また、どの村どの居住区にいっても「テツオ! オー、テツオ!」「先生!」という人ばかりで、増永さんへのその土地の人からの敬愛、尊敬を感じました。こんな方の後ろで回らせていただき、見て感じたことは、僕の今後の民族舞踊生命での宝です。

 
 土地の美しさを目で感じ、音楽の素晴らしさを耳で感じ、住んでいる環境のにおいを鼻で感じ、その土地その土地のおいしい食べ物を舌で感じ、握手の強さや使っているものの感触を肌で感じました。五感でたくさん感じたくさん学びました。

 

 こんなことを40年続けてらっしゃる増永さんへの尊敬がより強まったこの11日間です。

帰国してから、またじっくり踊りと向き合おうと思います。
たくさんの誤解と無知と向き合いながら、自分が楽しめるよう好きに踊りたいと思います。

興奮してぼーっとしてるので長々書いてしまいました。。

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”オンドラーシュ”が来る。

あのオンドラーシュが!

チェコフォークダンス愛好家 田中すみ子 2017

 1997年冬、ダンス大好きなすこ~し年のいった3人の少女が、寒いプラハのメーン・ステーションに降りました。チェコのクリスマス・ダンス・ウイークに参加するためでした。 チェコのフォークダンスとの出会いです。衝撃でした。美しいメロディー、力強い男性のヴォーカル、優雅な泣きたくなるようなスタロダーヴニー、軽快なポルカ・・・・ああ、こんな踊りがあったのですね。
 そして2002年オンドラーシュが日本に来ました。若さ、力強く洗練されたステップ、エネルギーの迸り、最高の芸術でした。
 チェコの踊りにのめりこんで19年、青い空・白い雲・広い草原と美しい町を思い浮かべ、むつかしいチェコ語と格闘しながら私もチェコの踊りを踊っていきます。

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田中すみ子 ONDRAS
NEMZETI 重厚に大地から

重厚に大地から

フォークロールレポーター 増永哲男 2016

  長く千年近くハンガリーの施政下にあったカルパチア盆地(ルーマニアトランシルバニア・スロバキア・ハンガリー・セルビア北部)・クロアチアの多種多様な民族文化が共存共栄し、盟主ハンガリーの寛容が各地方各民族に素晴らしい民族音楽舞踊を育みました。

  さわやかに天から聞こえるスロバキア音楽、フレンドリーに周りから聞こえるルーマニア音楽、ハンガリーの音楽は重厚に大地から聞こえてきます。

  今回は中欧の玉手箱、ハンガリーの民族音楽舞踊をご紹介します。変幻自在なチャルダーシュ、勇壮なベルブンク、知性と優雅とパワフル・レゲニェシュを鬼才ジュラフスキー・ゾルタン率いる「ハンガリー国立舞踊団」の公開展示はエキサイトな感動のオンパレードです。

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Dhoad Gypsies From Rajasthan 
coco鮎美​  FB

  創始者のRahis Bharti (ラヒース・バールティー)は、DHOAD Gypsies From Rajasthan(ドード・ジプシーズ・フロム・ラージャスターン)のアートディレクター兼タブラー奏者である。 7世代にわたって続く音楽家系の直系で、イスラーム王朝ムガル帝国、イギリス・インド帝国の時代を強かに生き抜いてきた北インド・ラージャスターン地方最大の藩王:マハーラージャーの都、ピンクシティーで知られる美しいジャイプルが故郷である。 彼の先祖はみな由緒ある伝統的楽師であり、ラージャスターンに割拠する様々な藩王国の宮廷においても、音楽活動で仕える生活を常としてきた。藩王の元で演奏をし、またそのような品格の楽師を育ててきた彼の家系は、Khan Sahab(カーン・サーハブ)というコミュニティに属する。 ラヒース・バールティーこそは、先祖の血とたゆまぬ努力で受け継いできた伝統的遺産「民俗音楽」と「宮廷古典音楽」を、若く10代の頃から世界中に紹介してラージャスターンの音楽文化の評価を高め、その真髄を守りながらも発展させている生粋のアーティストでありエンターテイナーであるといえる。 DHOAD Gypsiesは、過去15年間で世界95か国において、約1100のコンサートを行ってきた実績を誇り、今もなおその記録は更新中である。
 
  このような功績は、今や「ラージャスターン文化大使」として世界のワールド・ミュージックシーンにDHOADの名を不朽足らしめた。美しきインドの砂漠に伝承されるラージャスターンの民俗音楽、そして7世代に渡り伝承されるRahis Bharti一族の歴代の音楽は、DHOADのステージを通して世界に伝えられ、観る者を魅了する。彼らの名声を博した公演は数知れず、その目撃者には、英国エリザベス女王2世(ダイアモンドジュビリー・即位60年祝典)、元フランス第24代大統領フランソワ・オランド氏、自らのお城でのプライベート誕生日パーティーに招聘したミック・ジャガー氏、パリ訪問歓迎式典に出席した現インド第18代首相ナレンドラ・モーディ氏など、世界的著名人の顔ぶれがうかがえる。様々な国を代表するミュージシャン達とのコラボ作品も次々と残しており、近年ではポーランドのWarsaw Village Bandとの作品が、ポーランドのグラミー賞に値するFryderykを2016年に受賞した。そして、フランスを代表するトップアーティスト、フランスの鬼才-M-ことマチュー・シェディッドとは2017年に、世界平和を訴えるメッセージ性のある作品で共演している。このように国境を越え、世界のミュージシャン達とともに、インドの美しい旋律を世界に発信し続けているのだ。
 
  DHOAD はラージャスターンの結晶とも言える、世代を超えた芸能の担い手からなる集団である。いにしえのマハーラージャー(藩王)の国から遣わされてきた彼らは、自分たちの伝統文化に精通したうえで、いかなるパフォーマンスにも全力で魂を込めた芸術表現をおしまない歌い手を含む6人の楽師たち、そして男女一名ずつの舞り子たちからなる。・・・クルクルと優雅に舞い広がる女性のスカート、ファキールと呼ばれるアクロバット専門の男性の舞手が火を吹くと、観ているものはまるで催眠にかかったかのよう・・・彼らの魅力的なパフォーマンスから映し出される物語と共に、藩王国の時代にタイムスリップする。この豪華絢爛なステージは、音楽と踊りこそ、どんな時代にも、世界に平和をもたらすという信念に基づき、メッセージ性も高い。 また後世にラージャスターンの伝統的な民俗文化芸能を保存し、継承させるという使命感から、ラージャスターン中の様々な音楽を生業とする異なるコミュニティの楽師やインド民俗舞踊のコミュニティからもバンドに招聘している。このように彼らは先祖たちに敬意を表し、前述したカーン・サーハブ Khan Sahabという、藩王に仕える楽師コミュニティの伝統を引き継ぐ誇りと名誉を一時も失うことなく、世界を舞台に活動を続けるラージャスターン唯一無二のバンドである。

​もっと詳しくDHOADを見る​

5カ国ロマフェスト

ジプシーキャラバン
フェスティバル

コンサート
フォークロールレポーター 増永哲男 2015

 その発祥の地と云われるインド・ラジャスタンから、新天地を求めヨーロッパへ移動していったロマ・ジプシー。現在バルカンやヨーロッパの様々な国で暮らすジプシーたちは、辿り着いた地域に暮らすガージョ(非ジプシー)の宗教や文化と融合し、それぞれの国ごとに独特のジプシー・フォークロールを育んできました。ムガル帝国時代のマハラジャから民衆まで幅広い音楽と舞踊を支え、インドの芸能に携わる部族・カーストから生まれたジプシー。オスマン帝国時代バルカンへ多くの音楽ジプシーを運んだトルコ。ジプシー文化を開花させたマケドニア、ルーマニア、ハンガリー。今回はこの5カ国のジプシーをご紹介します。


 ジプシーのステージは即興演奏と即興ダンス、無限のバリエーション。命を削る、身を削る、その一瞬一瞬にもエネルギーを燃やしつくす、真のエンターテイナー。ガージョ(非ジプシー)には最高に難しいジプシー独特の間(ま)とリズム。蓄積され受け継がれるジプシーDNA。熱い熱いフェスティバルコンサートになります。

 

 第4回ジプシーキャンプが前期2月6日(金)から8日(日)、後期3月6日(金)から8日(日)まで開催されます。ジプシーダンスワークショップ、ロマ・ジプシーシンポジウム、ジプシー音楽と舞踊を愛するミュージシャン・ダンサーが年に一度集うロマフェスト・ジプシーフェスティバルの詳しい情報は NPOロマフェストJAPAN のWebページに随時掲載されます。


 次回2020年は ― インドからヨーロッパへ ― 後編、トルコ、セルビア、アルバニア、ルーマニア、ウクライナ、ポーランド、スペインの中から、5カ国ジプシーが集結します。 文字で記録を残すガージョ(非ジプシー)の文字伝承文化に対し、文字を持たないジプシーたちは五感による表現により伝承してきました(感覚伝承文化)。オリジナルなジプシーの表現にその土地のガージョのフォークロールを融合し、その土地に、その国に、独特のジプシーダンスがクリエイトされていきました。
 

 だからジプシーダンスはひとつではありません。西アジアには西アジアの、アラブにはアラブの、バルカンにはバルカンの、ヨーロッパにはヨーロッパのジプシーダンスがあります。
 

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5か国coco鮎美DHOAD5カ国
2015 DHOAD 増永哲男
大村えり LADO2013

LADO公演によせて
大村 エリ 2013

 
 その歴史的・地理的条件からも察することができるように、クロアチアのフォークロールは、驚くほどバラエティ豊かです。 そんな豊かな"folklor(フォルクロル)"を、"旅する博物館"・"踊る博物館"とも呼ばれているLADOは、まさに最高のかたちで"展示"してくれます。  先ず、目を惹くのは、その民族衣装コレクションでしょう。日本でもお馴染みの、あの"šahovnica市松模様)"を彷彿とさせる赤と白のコントラストが美しいプリゴリェ地方やポサヴィナ地方の衣装をはじめ、ファッショニスタも釘づけになること間違いない、微笑ましいインパクトを与えてくれる、スサク島の衣装やヴァルポヴォの衣装など、スラヴォニアからアドリア海の島々に至るクロアチア全土はもちろん、ボスニアやセルビアなど周辺諸国の地域に暮らしてきたクロアチア人の衣装など、ありとあらゆる衣装を網羅した、このLADOの衣装コレクションがとりわけ素晴らしいのは、その衣装がもっとも美しく映える踊り―もとの形やスタイルをほとんど崩さないままに舞台へもちこまれた、最高の熟練度を誇るダンサーよる踊り―とともに魅せてくれることです。
 クロアチア語では一般に、踊りを"ples(プレス)"と呼びますが、bal(バル)、kolo(コロ)、drmeš(ドゥルメシュ)、tanac(タナツ)、poskočica(ポスコチツァ)など、いろいろな呼び名や種類があります。大人数で踊られるもの、少人数で踊られるもの、手を前で繋いで踊るもの、後ろで繋いで踊るもの、2人で踊るもの、何人かで輪になって踊るもの、その両方を組み合わせたり交互に踊られたりするものなどがありますが、これらすべてにおいて共通しているのは、ミュージシャンのみならず、ダンサーひとりひとりも、リズムやメロディの担い手、つまり、音楽の一構成要素となって踊るということです。
 かつて、オーストリア=ハンガリー帝国が栄えていたころに、貴族がスラヴォニアの村人たちを招聘して、この地方のゆるやかで陽気なコロを宮殿で踊らせたという記録があるそうです。クロアチアの踊りは、決してクロアチア人や踊りを踊る者だけが楽しめるものではありません、外国人であっても、観ているだけの者でも、楽しめるものなのです。(もっとも、彼らのように歌ったり叫んだりしながら踊るのが、一番楽しいのですが。)
  同時に、耳へ届く音楽も、言葉にできないほど美しい。 民族楽器コレクションも衣装に劣らず豊かです。クロアチアらしい柔和で明るい音色をうみだすタンブリツァ、サミツァ、マンドリンなどの撥弦楽器、ツィンバルと呼ばれる打弦楽器、リェリツァ、ヴァイオリンなどの擦弦楽器、ミフ、ディプリツァ、ドゥヴォイニツアなど多種多様な笛や、ドゥーダ、シュルレ等のバグパイプ類などの民族楽器が創りだす独特な響きはもちろんのこと、とりわけ、LADOが誇る"歌って踊る"ダンサー&ミュージシャンの歌声が素晴らしい。悲喜交々の恋物語や、自然や神への感謝などがうたわれた素朴な民謡をうたいあげる、力強く温かみのあるLADOのハーモニーには、きっと、誰もが心を揺さぶられることでしょう。 彼らクロアチア人たちは、自らの国を"Lijepa Naša(美しき私たちの(国))"と呼んでいますが―そうです、"私たち"にとっても、クロアチアの風景や自然はもちろん、フォークロアもうつくしいのです。 クロアチアのこころから、愛とともに※溢れだす美を、ぜひ、全身で、感じてください。
 * LADOは、2011年5月29日に、東日本大震災のためのチャリティコンサート《Japanu s ljubavlju (日本へ愛をこめて)》をザグレブにて開いてくださいました。

2014 LADO

クロアチア国立

ラド民族音楽舞踊団
増永 哲男 

 クロアチアの正式名称はクロアチア語で、Republika Hrvatska、通称 Hrvatska(フルヴァツカ)、英語表記は Republic of Croatia、通称 Croatia(クロエイシャ)です。クロアチア国立ラド民族音楽舞踊団はクロアチアの首都ザグレブにて発足しました。旧ユーゴスラビアには3つの国立舞踊団があり、マケドニア国立タネツ民族舞踊団(1997年招聘)、セルビア国立コロー民族舞踊団(2010年招聘)に続き、今回はラドを招聘いたします。
長年オーストリア・ハンガリーの文化と共生したパンノニア・スラボニア地方とザグレブを中心とする中央クロアチア地方、アドリア海を挟んで独特の文化を持つダルマチア地方、イタリアと文化を共有するイストリア地方の四つに大きく分けられます。さらに"島の踊り"、"山の踊り"、"里の踊り"の音楽と踊りを見事な衣装とともに展開します。海の踊りと内陸の踊りのコントラストが素晴らしい! 音楽12名・ダンサー32名・衣装・芸術監督各1名計46名の来日となります。

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LADO 増永哲男
大村えり MAKEDONJA

お喋りの声も、
庭先に咲く花の色も、
美しいハーモニー

大 村 エ リ

 イタリア語で“macedonia(マチェドニア)”といえば、「マケドニア」はもちろん、フルーツサラダやフルーツポンチをも指すことばですが、 その由来のひとつとされているように、マケドニアは、色とりどりのフルーツのように、さまざまな民族、さまざまな宗教を信仰する人々が、それぞれの味をもちながら、共に暮らしてきた地域です。 歴史の中で多くの争いが起こり、今もなお火種を残している地域であるとはいえ、 争いのない中での、平和な共生の時代は、その歴史の大部分を占めるものです。
 山あいの地に特有の厳しい自然環境のもと、この地に暮らす人々は、自らに伝わる伝統を守るとともに、 共に暮らす他の民族の文化に触れ、刺激を受けながら、ひとつの枠の中にとどめずに、垣根を超えて、 マケドニア、の文化をつくりあげてきました。
 この公演では、あたたかで、鮮やかで、異国のものでありながらどこか懐かしい、 人々の交流の歴史(つまり、今も止まることなく、いきている、といえるもの)が育んだ 「マケドニア」を、皆さまの耳や目で、あじわっていただけることでしょう。
 お喋りの声も、庭先に咲く花の色も、舞台の上で美しいハーモニーとなってよみがえります。


 

2013makedonja

フォークロール原風景
増永哲男 2012

 スコピエにあるマケドニア国立イリヤ・ニコロフスキ音楽バレエ学院伝統音楽舞踊学部に所属するマケドニア民族音楽舞踊団”アンサンブル・マケドニ ア”を主体に、シュティプにあるゴチェ・デルチェフ大学音楽院民俗学部所属舞踊団との共同制作アンサンブルです。このアンサンブルの民族音楽・舞 踊・衣装・楽器は「限りなくオリジナルに近く」が特徴です。演目ごとに、その地方の、その土地で使用される楽器で演奏されます。アンサンブルが使 用する楽器は20種類を超えています。団員は17歳から26歳までが主力、ダンサー全員が演奏し、唄い、踊ります。もちろんミュージシャンも踊り ます。マケドニアからの舞踊団は国立タネツ民族音楽舞踊団(1997年来日・フォークロールレポート招聘)がよく知られていますが、今回は敢え て、私のフォークロール観に一番近い、”マケドニアの真珠”アンサンブル・マケドニアを日本のフォークロールを愛するみなさまにご紹介します。マ ケドニアに住む少数民族、アルバニア人、トルコ人、ジプシーの音楽と踊りのレパートリーも素晴らしい。
 「人には人の衣装と音楽と踊りあり」、「マケドニア・フォークロール原風景」を公開展示します。

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2013 MAKEDONIA 増永哲男

ロマフェスト

ジプシー・フェスティバル
増永哲男 2012

  文字で記録を残すガージョ(非ジプシー)の文字伝承文化に対し、文字を持たないジプシー(以降ロマと表記)たちは五感による表現により伝承してきました(感覚伝承文化)。 オリジナルなロマの表現にその土地のガージョのフォークロールを融合し、その土地に、その国に、独特のロマダンスがクリエイトされていきました。だからロマダンスはひとつではありません。西アジアには西アジアの、アラブにはアラブの、バルカンにはバルカンの、ヨーロッパにはヨーロッパのロマダンスがあります。ロマダンスの種類を正確に数えることはできませんが、大まかに民俗(フォークロール)地方の数だけは在ります。
  このフェスティバルはそのロマダンスやスタイルを目指す、愛する、研究するダンサーが一同に会し、その成果を発表します。今回はアンサンブル・マケドニアとルーマニアのロマが参加します。 フェスティバルを通じ、ロマへの興味が増え、異文化理解に、少しでも役に立てればと思います。

即興創造性、素で地を行く自由さ
NPOロマフェストJAPAN 桐原良子

  ジプシーが一緒にいるだけで、どうしてこんなに嬉しくなるのだろう?!
  人々を虜にするその秘密はフォークロール度の高さにあるのではないでしょうか。自分達の言葉を話し衣装を着、指を鳴らして遊んでいることが舞台の素晴らしさの裏づけとなっているのは興味深いところです。ジプシーとしてのアイデンティティーの高さや、リズムに子供のころから慣れ親しんでいる生活そのものが、多くのジプシーたちを優秀なダンサーにしています。ロマフェストの持つ即興創造性、素で地を行く自由さに心から憧れます。ジプシーの才能に昇天してしまうのです。 

チンゲララーシュ(チンゲリ)
NPOロマフェストJAPAN 徳元裕子

  ルーマニアのジプシーの踊り、チンゲララーシュは、テンポの速い音楽に合わせ、どれだけ細かくリズムを刻み多彩なステップを踏めるかを競い合うように踊ります。個性的で魅力的なフィギュアを即興で生み出す能力が踊り手の技量を決める鍵です。ロマフェストの踊り手は全員が金賞ソロダンサーです。そんな彼らが極上のジプシー音楽で、生き生きと協調し一体となる夢のステージ。これこそロマフェストの真骨頂、ジプシースピリッ トの輝きの極みです。

 

『ジプシーってどんな人?』
NPOロマフェストJAPAN 根岸千春

  ROMAFESTの本拠地であるルーマニア・ティルグムレシュのカフェでの一場面。演奏家の奏でるジプシー音楽に合わせて、店の外にたたずむ壮年のジプシー男性がおもむろに手足をたたき踊り始める。 聞けば、毎日踊るためにそこに訪れるとのこと。 これほどまでに生きることと、踊ることが直結している民はいないだろうと思う。だからこそ、ジプシーの踊りから放たれる命の輝きは見る人の心を魅了してやまない。『ジプシーってどんな人?』その答えのひとかけらを、ROMAFESTの公演を通じて多くの人々に届けたい。

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2012ロマフェスト ジプシー・フェスティバル
大久保精一LUCINICA

「ルチニッツァ、ルチニッツァ」

スピードと躍動感、

高度なテクニック

        1994年の 「マスナガツアー」 でメジラボルツェという、ひと山越えればウクライナという田舎町のフェスティバルに行った時のこと、野外劇場でのプログラムは予定通り進行していたのだが、そのうち一つ演目が終わるたびに、拍手に混じって「ルチニッツァ、ルチニッツァ」というかけ声がかかるようになり、しまいには観客のほとんどが手拍子とともに唱和するようになってしまった。その日のトリだったルチニッツァを早く出せという催促のかけ声だったのだが、彼らのあまりにも素直な反応に、次の出演者に同情しつつも笑い出さずにはいられなかった。

   以来、彼らの公演を何度も見てきたが、メンバーは入れ代わっても若い男女が繰り出す踊りのスピードと躍動感、高度なテクニックは変わることがなく、今度久しぶりに来日すると聞いては、今から手拍子とともに「ルチニッツァ、ルチニッツァ」とかけ声をかけたい心境である。

   スロバキアダンス研究会クラスナ・ホルカ主宰 
                       大久保精一

2012 LUCNICA

気品・可憐・躍動が似合う

スロバキア民族衣装
世界に誇るスロバキア・フォークアート!
心に残るコレオグラフの極み


フォークロールレポーター 増永哲男

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  2011年3月11日(金)シンポジウム・コンサート当日 ロマフェスト・ロマ・ジプシーシンポジウム・コンサートで初めてのチケット完売となり、2日間連続も初めてのシンポジウムでした。その仕込時、あの東日本大震災が私たちをも襲いました。ジプシーたちにとって生涯初最大の恐怖でした。

 その影響で、予定をしておりましたNYC小ホールはNYCからホール使用中止を要請さ れました。しかし、大震災直後にもかかわらず、会場には3人のお客様が2時間以上歩いて駆けつけてくださいました。来てくださった方々の気持ちに応えたい、またシンポジウムを応援してくださっているすべての皆様の気持ちに応えたい一心で、NYCとの交渉を続けました。ホール内は吊りもの 照明灯の安全確認ができず、その結果、小ホールホワイエで開催することになりました。度重なる余震の中、ホワイエ会場に設備を設 置し少々開始時刻は遅れてしまいましのたが、シンポジウム・コンサート・ワークショップを開催することができました。

 

 余談ですが震災1日前の10日はアンサンブル全員とスタッフは仙台・松島で船に乗り観光していました。その時も震度3の地震がありましたが、良いお土産と笑っていました。そしてその夜、東京に戻りました。

 11日のシンポジウム発表予定者2名は交通事情がままならず中止。急遽、増永哲男(ロマフェスト代表)のジプシー報告となりました。その後、同じくホワイエにて、全ダンサー、全ミュージシャン参加 のワークショップ型のコンサートも行われました。

 12日も小ホール内は使用禁止が言い渡されていましたが、その後NYCとの交渉で、11時からのシンポジウムは小ホールホワイエで行うことの許可をいただき、どうにか電車を乗り継ぎかけつけてくれた関口義人氏と主催者増永哲男氏のジプシー対談と参加者との質疑応答、14時からのコンサートは 大ホールホワイエにて、18時からのワークショップ(さよならジプシーダンスパーティ)は予定通りカルチャー棟41号室で行いました。出演者も観客も涙、涙の感動コンサート、さよなら パーティになりました。

​増永哲男

11日震災当日、万難を排して参加した3名の中の一人名古屋から tina tuna さん。もちろん当日は帰れなくて3名は残り、みんなと同じくNYCに宿泊しました。その日夜のさよならパーティーの一コマ、tinaさんの記録。

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2011東日本大震災 5ヵ国ROMAFEST

5カ国ロマフェスト

ジプシーフェスティバル
フォークロールレポーター  増 永 哲 男

 

 バルカン・ジプシー、中欧ジプシーが集うフェスティバル(ロマフェスト・インターナショナル・ジプシー・フェスティバル)、国こそ違え参加するジプシーに共有するものはジェレム・ジェレムというジプシー語で唄うジプシー国歌です。この美しくも哀しいメロディと歌詞はあなたの心に残るでしょう。
 トルコの影響を受けイスラムを信ずるムスリムの品格あるジプシー衣装、カトリック・プロテスタントを信ずるヨーロッパジプシーのカラフルで自由なジプシー衣装 。”現在も着続けるジプシープライド!”
 バルカンの強烈大胆な太鼓とラッパ、ヨーロッパの繊細華麗な管と弦の音楽、お聞き下さい。"これがジプシー音楽!"
 バルカンのセクシーなチョチェック(マハラ)、ヨーロッパのリズミカルなチンゲリ(カップルダンス)、お届けします "これぞジプシーダンス!"

 


目から鱗のジプシー謎解き企画
第3回ロマ(ジプシー)シンポジウム

 

 ジプシーってどんな人?宗教はあるの?ロマとジプシーは違う人?ローマで会ったあの悪さのジプシーは?ロンドンのは?パリのは?どこから来たの?歴史は?国はあるの?言葉は何語?文字はあるの?ジプシーって何で旅するの?今どこに住んでいるの?ジプシー音楽って何?踊るジプシー娘って本当?まだまだあります、謎いっぱいのジプシー。   あなたの疑問にお答えします。目から鱗のジプシー 謎解き特別企画!

 

 

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2011 romafest
5カ国ロマフェスト
KOLO 高市

コロ舞踊団を迎えて


高市雄之(フォークダンス愛好家)

 コロ舞踊団。オールドフォークダンサーにはどうしようもなくときめきを呼ぶ名前であり、「コロの舞台でね」と口を切るだけで自分も相手も目が輝く経験を持つのは、筆者だけではないはずである。
 戦後の貧しかった日本に来日してヨーロッパの踊りとはどういうものなのかを見せつけ、ヨーロッパなど雲の彼方、という当時のフォークダンサーたちを魅了したのが、マゾフシェであり、モイセーエフであり、そしてコロであったことは何とも忘れ難い。
 今回が4度目の訪日となるコロ舞踊団であるが、実は前回までのとは大きな相違点がある。
 一つの国家に二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国、七つの隣国。こういう放胆なキャッチフレーズを携えて誕生した国をご存知だろうか。今は解体消滅してしまったユーゴスラビア連邦である。その凄惨な消滅の過程は、まだ筆者の記憶には生々しいのだが。
 コロ舞踊団は、このユーゴスラビアの国立舞踊団として、1948年に設立されたものである。ユーゴスラビア消滅後にもその名前を引き継いでいる実体は、「六つの共和国」の一つであり、ユーゴスラビア連邦の中核を自負していたセルビア共和国の国立舞踊団である。
 では、以前のコロ舞踊団とは無縁の別物かというと、そうでもないので。ここらが、ユーゴスラビアの錯綜した歴史を反映していて、一筋縄ではいかないのですねえ。是非ともご自分の目で確かめて下さい。
 ご存知のとおり、バルカン諸国の踊りは基本的にチェーンダンスである。チェーンダンスに血の騒ぐ向きは、今回の公演に挙って参集されるであろう。チェーンダンス愛好者は、足捌きの細部に眼を奪われるあまり、舞台全体の構成に重きを置かぬことが間々あるのではなかろうか。
 ペアの踊りを基本とする民族の舞台は、ペアが明確な単位となるので、その単位を平面的立体的にいかようにも配置し構成していくことができる。チェーンダンスの場合は話が異なる。個々のダンサーは明確な単位とは言い難く、四人が連なったものと十人が連なったものと,舞台構成上に大きな違いは生まれない。
 この難点をいかに突破するかが、振付師の腕の見せどころであろう。コロ舞踊団におけるその成功例は、たとえばセルビアンメドレーであり、ヴラニエであった。今回の公演にも登場するであろうが、これらの作品がセルビア各地の舞踊団でヒットナンバーの座を占めているのも無理からぬところである。これらの舞台からは、新しい秩序を目指して南スラブ民族が足並みを揃えた建国当時のユーゴスラビアの熱気が、今もなお伝わってくるのだ。

2010 KOLO

フォークダンスは

コロに始まり
コロに終わる

 そのコロの国、セルビアから総勢45名の来日です。
 旧ユーゴスラビアの解体によるセルビアの誇りと伝統は、コロ舞踊団に残されました。 旧ユーゴ時代のプログラムから大きく発展し、セルビア民族の燃えたぎる血と力を、舞台で展開するセルビア絵巻です。お見事KOLO!
フォークロールレポート 増永哲男

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ハンガリー民族の芸術天性


   生活の動力源である家畜、とりわけ牛と馬と人との生活密着度はハンガリーにおいて際立っています。
   ゆったりとしたテンポから、力強いテンポ、徐々に荒れ狂い勇猛果敢なテンポになる牛のリズム。大地で生まれ育ったチャルダーシュは、自由に踊る牛(男)と手綱を放さないパートナー(女)との、調和のとれた見事な芸術作品です。
   ハンガリーの草原・平原を駆け回る馬は移動手段として、また農牧作業の役務に欠かせない貴重な力になりました。常歩(なみあし)早歩(はやあし)駈歩(かけあし)4節2節3節の馬のリズムで、華麗な足さばき でレゲニシュを踊りました。 
   生活のリズムを活かすハンガリー民族のフォークロール芸術天性にいつも感服します。これらの音楽とリズムを担い続けるジプシーに、彼らを寛容に許容したハンガリー人にも敬服します。
   ハンガリーの鬼才コレオグラファー、ジュラフスキー・ゾルタン氏率いるハンガリー国立ホンベード民族音楽舞踊団は、常時 26カップルのダンサーと二つの楽団が在籍するハンガリー最大の国立舞踊団です。HONVEDから選抜されたメンバーにジプシーアンサンブル・ロマフェストの天才プリマーシュ(バイオリニスト)とダンサーを加えた総勢42名の共同制作作品です。
フォークロールレポーター 増 永 哲 男

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ハンガリー民族の芸術天性HONVED

地方ごとの其々の違い、

奥の深さ、膨大な量

 

   チェコは歴史上、民族的に、文化的に、ボヘミア(地元はチェヒィ)、モラヴィア、スレスコの3 地方に分けられ、民族舞踊にも大きな違いが見られます。
 私は機会があり、1997年12月ドゥヴォラナがプラハで開催したクリスマスFDセミナーに参加しました。それまで「ドウドレブスカ・ポルカ」位しか踊っていませんでしたが、これを機にチェコの踊りに魅了され、10 年間チェコに通いつづけ、地方ごとの其々の違い、奥の深さ、膨大な量が判りはじめて、圧倒されています。
 ボヘミア は、代表的な民族ワルツの「ソウセツカー」、2 拍子、3拍子が入り交じって踊られる「マテニーキ」、3 拍子を2 拍子で踊る「フリアント」、チェコ民族の血を騒がせて回転し続ける皆が大好きな「ポルカ」等があり、ドイツ、オーストリアの影響も見られます。
 モラヴィア は複雑でハナー、ブルノー、ヴァラシュスコ等、文化的には多数の地方に分けられます。ここでは各村ごとに伝統様式も衣装の着方も違う等、単一民族の日本人には理解しにくい部分が数多く見受けられます。南部は“地元特産のワインをたくさん飲み、男は喉自慢”で、踊りの前に唄が先行し、あとで女性を呼んで踊り始めます。中でも特筆すべきはスロヴァーツコ地方の男性の踊り「ヴェルブンク」が2005 年にユネスコの“世界遺産”に登録されました。ブラボー!!!
 スレスコ (ポーランド語ではシュロンスク、私たちが学校で習ったときはシレジア)は、ポーランドだった時代が永く、文化の面での影響が大きく見られます。最近踊っている「チェシノク」はチェコの「スタロダーヴニー」とポーランドの「ポロネーズ」が合体し、スレスコの歴史を物語っているような踊りと言えます。
 チェコで圧倒的な人気の“オンドラーシュ”、日本公演を大いに期待しています。


鵜 沢 敏 子        

 

 

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2008 ONDRAS鵜沢敏子

ヘンリック・ドゥダの

クラシック ポーランド

SLOVIANKI

フォークロールレポーター 増永哲男

 

 ポーランドでは一番歴史のあるクラコウ大学(ヤギエロニアン大学)に所属する18歳から28歳のメンバーで構成される民族音楽舞踊団です。1967年、ポーランド民族舞踊を日本に最初に紹介したヘンリック・ドゥダ氏によって創設されました。氏のコレオグラフによるプログラムの中に日本に紹介された踊りがそのまま見られます。クヤビアク、マズール、ポロネーズ、オベレックのナショナルダンスは溜飲ものです。ポーランドの二つの国立舞踊団シュロンシュクとマゾフシェは芸術性を追求し、ポーランドの洗練された美を紹介しますが、このスロビアンキはポーランド民族の持つ「エネルギーと誇り」を前面に出します。リージョナルダンスである地方の特色のある民族舞踊はこのスロビアンキが一番オリジナルに近く、原型のまま展示しています。踊りながら歌うこと、歌ってから踊ること。唄と踊りは一体です。スロビアンキは舞踊手が踊りながら唄います。ここが民俗舞踊の一番の特徴であり、フォークロールレポートの舞踊団選択の基準になっています。

 

圧巻のクラコヴィアク
マズールFD研究会 菅沼泰彦(すがぬまやすひこ)

 世界で一番民俗衣装が美しいと云われているポーランドから”スロヴィアンキ”がたくさんのコスチュームをもって来日します。ただ華やかだけのショーダンスではない、何年も踊り継がれている民族の踊り(フォークロアダンス)をご覧下さい。クラコウの誇る伝統の踊りスロヴィアンキの「クラコヴィアク」、これは圧巻!、他の舞踊団では見られません。あのヘンリック・ドゥダ氏の構成した数々の踊りが日本で初めて見られます。待ちに待った来日です。
 

ポーランドの踊りの魅力
ポーランド民族舞踊研究会「彩」

川上雄也(かわかみたかなり

 

 ポーランドの踊りはナショナルダンスとリージョナルダンスに分けられます。
 ナショナルダンスはポロネーズ、クヤヴィアク、マズール、クラコヴィアク、オベレックがあり ステップ、ポーズ等が非常に洗練されており、音楽は美しく、うっとりするメロディが数多くあり、そしてどの国にも引けをとらない美しい民族衣装と三位一体となって世界でも稀に見る素晴らしさがあります。


ポ-ランドの踊りに接する
名古屋ポ-ランドダンス研究会 吉田幸三

   ポ-ランドは侵略・略奪を被る一方の歴史の中で、国の名前を実に三度までも喪った。にもかかわらず、文化のレベルは高く、人々は強い自尊心と誇りを持っている。嫌というほど痛めつけられ、悲惨な目に遭っているというのに、ポ-ランド人は、人を疑わず、来るものの全てを温かく迎え入れてくれる。驚くほどお人よしで、平和を愛する人々である。ポ-ランドの民族舞踊に接し、自らのものにしようとすればするほど、実は、ポ-ランド人の世界観、価値観は、どこの国のものよりも優れて、世界平和を希求することに繋がっているということが実感されてくる。ポ-ランドの民族舞踊が好きになるということは、とりもなおさず、ポ-ランドに関するありとあらゆることが好きになるということ。ポ-ランドの踊りに接することは、世界平和実現への一歩に繋がっている。これだけは、紛れもない真実である。

魅力あふれる国「ポーランド」と

スゥォヴィアンキ舞踊団
仙台ポルスキータンツ研究会  門間 巌

 ショパンで代表される、数々のポロネーズ,マズルカ。その音楽から生まれた数々の民俗舞踊に魅せられ目を輝かせる自分。この民族舞踊団の踊りは、初めて教えていただいたポーランドの踊りでクラコヴィアク、マズール、ポロネーズ、クヤヴィアク、オベレックのナショナルダンスの音楽に魅了され、今日まで踊るごとに新たな感動と素晴らしい仲間を得て続けてきました。今回、夢がかない同舞踊団の踊りに触れる機会が訪れ感激でいっぱいであり、この踊りを皆さんにみていただき歴史の中から生まれた、血のたぎる素晴らしさを味わい満たされることを願っています。

 

踊る天国
佐 藤 武 志

 ポーランドの踊りは、何故か我々日本人の心に響くすばらしい踊りばかりです。哀愁のメロディに乗せて心せつなく踊るクヤビヤク、宮廷の優雅な雰囲気をかもしだすポロネーズ、情熱と華麗さを併せ持つマズール、男性が宙に舞うかのごとき軽やかなオベレック、ポーランドの古都クラクフで生まれ、壮大なスケールで踊られるクラコヴィアク。そして、踊りに合わせて身に着けるコスチュームのあでやかさ、まさに“踊る天国”と言っても過言ではないでしょう。一度、音楽を聴き、踊りを見ただけでポーランドの虜になる。そんな魅力ある国・ポーランド!私も2006年夏クラコウにて鑑賞いたしました。素晴らしかった。楽しみです。

スウビアンキ舞踊団を迎えて
ネットマズルカ  片岡宣義

 フォークダンス愛好者にとって、ドゥダのクヤビアクなどで知られる、ヘンリックドゥダ氏は2度来日しています。
 最初、1964年に、日本フォークダンス連盟が招聘した時は、彼が、クラクフのノバフタという舞踊団で指導している踊りを主体に紹介されましたが、1981年の来日では、この、スウビアンキ舞踊団で指導している踊りを紹介されたと言います。 日本で言うなら、京都のようなクラクフに於いて、最も、ポーランド的伝統を受け継いできたと言われる、スウビアンキ舞踊団の完成された踊りを、遂に、見ることができ、期待に胸弾む思いです。


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2007 SLOWIANKI

芸術監督エルビン・バルガ氏の珠玉作品

      チェコスロバキア時代からレパートリーの多様さ、衣装の美しさ鮮やかさ、ハイレベルな舞踊技術、天から聞こえる音楽のさわやかさ、メロディのうつくしさ、東欧の数ある国立舞踊団の中でも質の高さが際立っています。Aプロはスルク歴代レパートリーの中からのベストテンプログラム。Bプロはスロバキアで使われている20種類の民族楽器と10の地方の踊りが織り成すドリームプログラム、芸術監督エルビン・バルガ氏の珠玉作品。

増永哲男

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2006 sluk
2006 SLUK バルガ氏の珠玉作品

感覚伝承文化の極み

ROMAFEST 2005
増永哲男

 素敵なジプシーに会えるのはルーマニアのトランシルバニア、なかでもティルグ・ムレシュ近郊。威風堂々としたジプシーの男たち、きれいに着飾った女たち、可愛い娘たちに、町の、村の、いたるところで出会うことができます。ヨーロッパのどの民族も持ち得ない共有感性を持つジプシー、母国を持たず文字に記さなかった歴史、知れば知るほどひと(ロマ)の原点が見えてきます。スーパーマイスター・ヤコブ・アティラ、驚愕のスピード・プチ・コザック・エルヌ、野生の貴公子・サント・アティラ、個性あふれる感覚伝承文化の極みをご紹介します。
        


生粋のジプシー、ほとばしる才能
NPO ROMAFEST JAPAN 理事 徳元裕子

 

 1999年にトランシルバニアの村の公民館で始まったロマフェストも、今ではルーマニア中の音楽家、踊り自慢がその舞台でしのぎを削る一大ジプシーフェスティバルに成長しました。参加チームの増加は言うまでもなく、回を重ねるたびに前年のレベルを遥かに上回るパフォーマンスをやってのける彼らの底知れないエネルギーには驚かされるばかりです。
   ジプシーたちは生まれた時から踊りや音楽に接し、自然にそれを自由自在に操る術を身に付けます。喜びに溢れた踊りは他を圧倒するパワーを誇り、悲しみ深い音色は誰の心にも美しく哀しく迫ってきます。ジプシーたちは心から踊り、心から歌います。そんな彼らの姿が私を魅了して止みません。ほとばしる才能の泉を持った生粋のジプシーたちが日本上陸。彼らはその熱い魂を縦横無尽に躍らせ、とどまることの無い進化を私達の目の前で見せてくれるに違いありません。ジプシースピリットに熱いエールを!


 
 

大きく花開け、ジプシー文化
NPO ROMAFEST JAPAN 副理事長 根岸千春

 

 

 国境を越えルーマニアへと足を踏み入れると、なぜだか胸が高鳴る。そして贅沢なプリーツの美しいスカートをはいたジプシーや、立派なつば帽子を誇らしげにかぶり、自信たっぷりにひげをたくわえたジプシーを見かけると、その興奮は一気に度合いを増す。「こんなところに住んでいるのか。」「どんな言葉を話すのだろう。」「何を生業としているのだろうか。」様々な想像が頭をよぎる。
 ジプシーはインドの西北部を起源とし、14世紀に欧州へと渡り住み生活を営んできた民族だとされています。その中でも、旧オーストリア・ハンガリー帝国領内に住むジプシーは、他の地域に住むジプシーに比べて、古くから市民権を得ていました。それは、村での冠婚葬祭や年中行事にはかかせない音楽演奏、生活必需品である金物細工や手工芸品の製作・修理がジプシー達の得意とするところであったからです。特にルーマニアのトランシルバニア地方では現在でも寛大な村人達と誇り高く芸達者なジプシー達が密接に共存しています。
 多くの人に、このジプシーの優れた文化、特 に音楽と踊り、を知ってもらいたい。そして何より、ジプシー自身に自分たちの持つあふれんばかりの才能の花を大きく開かせ、世界に旅立たせたい。その様な思いから、東欧の民族音楽舞踊を30年間取材し続け、音楽に深く関わるジプシーの音楽と踊りと生活に精通している増永哲男氏を中心に、NPOジプシー支援会議(ROMAFEST・JAPAN)は発足しました。毎夏ルーマニア・ティルグムレシュにおいてジプシーの歌と音楽と踊りの祭典"ロマフェスト"を開催しています。

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2005 ROMAFEST 感覚伝承文化の極み

ボスニア・ヘルツェゴビナ

民族音楽舞踊団
CAJAVEC
フォークロールレポーター 増永哲男      

 

 2003年3月、ボスニア大使からの一本の電話。「『貴国ボスニアの内戦は?治安は?安全ですか?・・・』と、私は日本でのパーティでいつも同じことを聞かれます。そしてお答えします。『確かに我が国では長い年月内戦が続き、日本での私たちボスニアへのイメージは戦争と悲劇で占められています。しかし日本からの経済支援もあり順調に復興しています。』私が日本の皆様にもっともお伝えしたいことは、ボスニアの誇りである、民族文化、フォークロールの豊かさです。この素晴らしい民族文化を紹介することで、暗くつらい戦争のイメージを払拭し明るく豊かなボスニアのイメージを伝えたいのです。増永さん、協力していただけませんか?」熱心に語る当時のボスニア大使、ハジムラトビッチ・アジズ氏のこの思いを支援する形で、この企画は始まりました。その後、ボスニア共和国文化省・外務省の協力の下、25の舞踊団を訪ねました。そしてサラエボからローラ舞踊団とコロ・ボサンスコ舞踊団、バニャ・ルーカからチャヤベッツ舞踊団を選び、今回はボスニア最高のエネルギッシュでカラフルな公演でグランプリを得たチャヤベッツ舞踊団の来日となりました。
 ヨーロッパに唯一育まれたイスラム文化のボスニアックムスリム人、カトリックのボスニアッククロアチア人、そして正教のボスニアックセルビア人、この三位一体が、ボスニア・フォークロールの核になり、カラフルなコスチュームと楽しいコロが展開されます。
 紛争が終結し8年が経ちました。ボスニアを構成し、紛争では対立した3つの民族は、ボスニア連邦、セルビア共和国と政治的に引かれた境界線の中で生きています。他民族多文化の融合、素晴らしき多文化の国ボスニアのフォークロールを紹介します。
 Cajavecはバニャ・ルーカで生まれ、昨年50周年を迎えました。ユーゴスラビア国立コロー民族舞踊団、ラド民族舞踊団、タネツ民族舞踊団を指導したバショ・ポポビッチ氏(芸術監督)が指導しています。メンバーはボスニアックセルビア人を中心とした構成です。
 Aプロはグランプリを獲得したボスニア・プログラムを中心に、
 Bプロは旧ユーゴスラビアのセルビア・クロアチア・マケドニアの踊りも得意とし、プログラムの中にも多く含まれます。おなじみセルビアン・メドレー、クロアチアン・メドレー、ボスニアを代表する無伴奏の踊り(グラモチの踊り)が含まれています。
 2003.9

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2004 ボスニア・ヘルツェゴビナ

日本ルーマニア友好百周年記念公演
ルーマニア国立ムレシュ民族音楽舞踊団

 ルーマニア国立ムレシュ民族音楽舞踊団はトランシルバニア地方ティルグ・ムレシュで1949年から活動を続けています。トランシルバニアの真ん中にあり地理的・文化的にも中心地です。長くハンガリー・オーストリア帝国の一部でした。そのためルーマニア人・ハンガリー人・ドイツ人・ジプシー(ロマ)の文化が混在しています。同じメロディのひとつのチャルダシュが四つの民族のタイプに演奏され踊られます。今も多くの伝統文化が生き続けています。 少数民族の伝統文化を尊重し、全員が唄って踊る舞踊団として有名です。この舞踊団は1992年ルーマニア国立トランシルバニア民族音楽舞踊団として来日し、トランシルバニアに伝承される舞踊技術と舞台迫力は観衆に感動を与え、Cプロ(村の結婚式のように自由に踊るノンコレオグラフプログラム)が上演できるニュースタイルの舞踊団として大好評を博しました。生活のリズム(牛のリズム・馬のリズム)から生まれたカップルダンス、静と動のコントラスト、パワーとテクニック、コミカルとエレガンス、全てが楽しい舞踊団でした。
 92年初来日公演以来、多くの人たちがティルグ・ムレシュを訪れ経済的に苦しい舞踊団を支援し励ましました。舞踊団からも講習・研修に来日し交流を続けました。まる10年の交流成果も楽しみです。ご支援いただいた関係諸氏に深く感謝申し上げます。

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2003 MURES
MURES

“オンドラーシュ”


鵜 沢 敏 子   2001

 チェコは歴史上、民族的に、文化的に、ボヘミア(地元はチェヒィ)、モラヴィア、スレスコの3 地方に分けられ、民族舞踊にも大きな違いが見られます。
 私は機会があり、1997年12月ドゥヴォラナがプラハで開催したクリスマスFDセミナーに参加しました。それまで「ドウドレブスカ・ポルカ」位しか踊っていませんでしたが、これを機にチェコの踊りに魅了され、10 年間チェコに通いつづけ、地方ごとの其々の違い、奥の深さ、膨大な量が判りはじめて、圧倒されています。
 ボヘミアは、代表的な民族ワルツの「ソウセツカー」、2 拍子、3拍子が入り交じって踊られる「マテニーキ」、3 拍子を2 拍子で踊る「フリアント」、チェコ民族の血を騒がせて回転し続ける皆が大好きな「ポルカ」等があり、ドイツ、オーストリアの影響も見られます。
 モラヴィアは複雑でハナー、ブルノー、ヴァラシュスコ等、文化的には多数の地方に分けられます。ここでは各村ごとに伝統様式も衣装の着方も違う等、単一民族の日本人には理解しにくい部分が数多く見受けられます。南部は“地元特産のワインをたくさん飲み、男は喉自慢”で、踊りの前に唄が先行し、あとで女性を呼んで踊り始めます。中でも特筆すべきはスロヴァーツコ地方の男性の踊り「ヴェルブンク」が2005 年にユネスコの“世界遺産”に登録されました。ブラボー!!!
 スレスコ(ポーランド語ではシュロンスク、私たちが学校で習ったときはシレジア)は、ポーランドだった時代が永く、文化の面での影響が大きく見られます。最近踊っている「チェシノク」はチェコの「スタロダーヴニー」とポーランドの「ポロネーズ」が合体し、スレスコの歴史を物語っているような踊りと言えます。
 チェコで圧倒的な人気の“オンドラーシュ”、日本公演を大いに期待しています。

2002 ONDRAS

チェコスロバキア国立

ヤーノシク(JANOSIK)

​増永哲男
 

チェコ国立オンドラシュ民族アンサンブルはチェコ国軍(空軍)に属するプロフェショナル国立舞踊団です。1954年民族アンサンブルとしてブルノに誕生しました。1993年1月1日チェコとスロバキアは協議分離され、ヤーノシクはスロバキア語のためチェコ語のオンドラシュに名前が変わりました。団員の半数は18歳から22歳までの各地の民族アンサンブルから集まった精鋭若者です。その中の数人は次年度以降も残り、半数は職業芸術軍人となります。ハンガリーのホンベート・アンサンブル、日本の航空自衛隊音楽隊と同じです。チェコ、モラビア、シレジア地方を中心に、ヤーノシク・アンサンブル時代からのスロバキア・レパートリーも多く、バラエティに富んだプログラムで、年間180近い公演を行っています。明るく軽快なポルカの音楽で元気いっぱいの若者がチェコ民族の真髄をさわやかに展開します。

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鵜 沢 敏 子 ONDRAS

ゼレジアル民族音楽舞踊団

東スロバキア


  スロバキアを代表する民族音楽舞踊団です。東スロバキアのコシツェ(スロバキア第2の都市)に民族芸術学校を持ち、6歳児童から18歳高校生までの300名が在籍し、一貫した民族芸術教育および公演活動をしています。成果も著しく、スロバキア芸術大学へも多くの学生を送り出し、スロバキアでの全国民族舞踊団コンクールでは圧倒的な最多金賞受賞を誇ります。東スロバキアの特徴であるチャールダシュ、クルツェナ、カリチカ、ベルブンクを中心とした"天から届けられた"プログラムを展開します。

 

ドゥルズバ民族音楽舞踊団

西スロバキア

  
 西スロバキア、トレンティンに本拠地をおき、100名の団員を擁し、年間80の公演を行っています。西スロバキアの特徴である女性をリフトする踊りは高度な技術と訓練された男女のチームワークを必要とし、見るものを飽きさせません。全編に流れる軽快な音楽とポルカを中心とした"天へ届ける"プログラムを展開します。


フォークロールレポーター 増永哲男 2001

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2001 ZELEZIAR DRUZBA
ZELEZIAR DRUZBA
http://www.folklor.com/ensembles/2000hungariangypsy/main.html

4つの国立舞踊団による
ハンガリアン・ジプシープログラム


フォークロールレポーター 増永哲男 1999

 しかし、旧オーストリア・ハンガリー帝国時代の文化圏に住むジプシーたち、特にトランシルバニアのジプシー達は他の国に住むジプシーたちよりもいち早く市民権を得ていました。なぜなら、金もの細工や鍛冶屋の工芸、金銀宝石類の売買は古くから馬車とテントで旅するジプシー達のお家芸でした。また町や村のクリスマス・イースター・結婚式・居酒屋(チャルダ)の音楽演奏はそこ住み着いたジプシーたちの大きな役割でした。バルトーク、コダーイ、リストの音楽の中にもジプシーのイメージが多く登場します。いまでもトランシルバニア地方(特にセイケイ地方)のジプシーたちは普段も綺麗なジプシー衣装を着て生活しています。かれらはジプシーに生まれてきたこと、彼らの生活・文化を誇りにしています。
  そのようなジプシーの中からサースチャバシュ・ジプシーバンドがやってきます。トランシルバニアに住む人たち(ル-マニア人、ハンガリー人、ドイツ人、ユダヤ人、ジプシー)の地域に密着した力強い音楽を演奏します。彼らのお父さんもおじいさんも名バイオリン弾きでした。加えてこの村の楽士達は歴代名舞踊手でもあります。
 ブタペストからはアンド・ドロム・ジプシーバンドがやってきます。アンド・ドロムは身近な生活の中から水瓶、スプーン等、叩けるものは何でも楽器にしてしまいます。切なくも甘く、悲しくも美しく、ジプシーの言葉で、ジプシーのための音楽を披露します。ハンガリーでは1990年にジプシー議会がヨーロッパで最初に創設され、ジプシー語による教育のための学校も創立されました。特に文字を使わない感覚伝承を基本にするジプシーたちが芸術重視の教育を受けたときの成果は今から楽しみです。アンド・ドロムのリーダーであるイエノゥ・ジグゥさんはそのジプシー議会の議長でもあります。
 ハンガリーの4つの国立舞踊団(ハンガリー国立民族団、ハンガリー国立ブタペスト民族舞踊団、ホンベード舞踊劇場、BMドゥナ芸術団)とトランシルバニアからルーマニア国立マロシュ民族舞踊団から選抜された10組のプロ舞踊手20名がハンガリー国立民族舞踊団舞踊監督ジュラフスキー・ゾルタンさんのプログラム構成、総合芸術監督にバルガ・エルビンさんを迎えジプシーフォークロアを展開します。誇り高き生のジプシーの音楽を唄と踊りでご紹介します。   

 

 

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ハンガリアン・ジプシープログラム

ROMAFESTに恋して Ⅰ 


徳元裕子

 

 満を持してROMAFEST舞踊団が誕生したのは2001年7月の第三回大会でした。
村ごとに組まれた参加チームの数も飛躍的に増え、それぞれのチームが大応援団を引き連れてGernyeszegに乗り込んできます。
会場となる村の小学校一帯は次々に到着するジプシーたちで溢れ、フェスティバルの開会を待たずにあちこちで即興演奏が始まり、人垣が踊ります。
 一口にジプシーといっても、踊りや音楽、衣装には村ごとに特色があります。それぞれのチームが演奏で、踊りで、色とりどりの衣装で、お互いをアピールし合うのです。そんな彼らの表情は、同胞と一堂に集う喜びや、ジプシーとしての誇りにあふれ、実に晴れがましく、その姿に触れる私達の胸までをも熱くします
 予選当日はあいにくの雨模様。
校庭の仮設ステージは使えません。 会場は急遽公民館に移されましたが、中は小さなステージの上以外ジプシーですし詰めです。 予選が始まった途端、会場の興奮は一気に頂点に達します。
舞台に上る踊り手たちは最初から真剣そのもの。
彼らの渾身の踊りに、音楽も、観客の魂も即座に呼応し、 会場全体に大きな一体感が生まれるのです。
 ジプシーたちは小さな子供でさえ誰もが、 何百人もの観衆が見つめる舞台の上で臆することなく自分を表現します。
それはまさに、先祖代々音楽と踊りとともに生きてきた彼らの血の成せる業です。
そんな才能あふれるジプシーたちの中から 特に魅力的なパフォーマンスを見せた者が決勝に臨み、 そこで最大限を越えた力を発揮し、観客を魅了した者に 金、銀、ブロンズの各賞が授与されました。
その入賞者の中から、ジプシーの魅力を世界に発信するべく 若き音楽家と5人のダンサーたちが日本行きの栄冠を手にしたのです。
ここからROMAFEST舞踊団の快進撃が始まります。


 

FALLING IN LOVE

WITH ROMAFEST 1

by Hiroko Tokumoto

 

The small community all of Gernyeszeg was bustling with people. The people gathered were Gypsies living here and there in Transylvania. Men and women old and young, children and infants, they were all Gypsies. This was the day of the Gypsies Festival.Dancers wearing their best for this day went on stage to show their skills keeping in tune with the performance of skilled musicians representing the village. With an unique air of pathetic ness yet in a fast tempo performed in many ways arouse your interest . During the long hours of performance, the men performers dancing in complicated steps slap their bodies here and there rhythmically. The woman with shorter steps taking in the impact with their whole body flutter their colorful skirts flatteringly . The rhythm and speed timed exactly to the music is indeed a divine skill.The audience cheering wildly to this performance, they are entirely Gypsies.The body moves naturally as long as there is music.The spirit of the whole room is united into one.The ROMAFEST began in November 1999.Fortunately I was able to attend to the first performance, a memorable one. Being in the presence of so many Gypsies and viewing their performance with my own eyes, their performance filled with enthusiasm and howling spirit overwhelmed me, however their song JELEM JELEM closing the festival left a huge wave of admiration within me.While being moved to admiration of their high technique it makes me wonder why their performance strikes the heart of the audience in this way. I come to he conclusion that the dance and music of the Gypsies are handed down from their ancestors, the principle being the same as a newborn infant who learns to speak naturally, it is another language that lodges within their soul. From this ROMAFEST contest showing the spirit of Gypsies, I shall always remember the radiance it has left in my mind. ロマフェスト JAPAN Tour 2011! Romafest Japan KAKO

ROMAFESTに恋して Ⅱ
徳 元 裕 子 

 Gernyeszegの小さな公民館は人々でごった返していた。
集まったのはトランシルバニアのあちこちに暮らすジプシーたち。
男も女も、老いも若きも、子供も赤ん坊も、みんなジプシー。
今日はジプシーたちの祭典だ。
村代表の腕自慢の音楽家たちの演奏にあわせて、 この日のために一張羅を着込んだ 踊り手たちが次々に舞台に上り、その技を繰り出す。
独特の哀愁を含んだ、それでいて気持ちを掻き立てるテンポの速いメロディーが、 幾通りも、そして何時間も演奏される中、男は複雑なステップを踏みながら、 力強くその手で体のあちこちをリズミカルに叩く。
女は細かくステップを刻み、全身にその振動を湛えながら、 色あざやかなスカートを妖艶にひるがえす。
音楽にあわせて刻まれる正確なリズムとスピードはまさに神技だ。
この熱演に沸き立ち大声援を送る観客、彼らもジプシー。
音楽があれば自然に体が動き出す。
会場全体が一気に高揚する。
1999年11月に始まったROMAFEST。
私は幸運にも、その記念すべき第一回に立ち会うことができました。
初めて目の当たりにする沢山のジプシーたちと、 その魂の咆哮とも思える熱気のこもったパフォーマンスに 最初から圧倒されっぱなしでしたが、その驚きと衝撃は、 彼らの心の歌、JELEM JELEMで幕を閉じるフェスティバルの最後には、 大きな感動の波となって押し寄せて来ました。
その高度なテクニックに驚嘆するのはさることながら、 なぜ彼らのパフォーマンスは見ている者の心をここまで打つのでしょう。 それはジプシーの踊りや音楽が先祖代々、 生まれた赤ん坊が自然に言葉を覚えるのと同じ原理で 彼らの魂に宿ったもう一つ言葉だからです。
ROMAFESTというジプシーの魂の競宴で 彼らが放った輝きを私は忘れることができません。

FALLING LOVE WITH ROMAFEST 2

by Hiroko Tokumoto

 

The ROMAFEST DANCE ENSEMBLE was established in June 2001, the third contest. Each village had their own teams which increased greatly, each team was accompanied by a large cheering group arriving at GERNYESZEG. The whole grounds of the village primary school would be filled with arrivals of Gypsies, without waiting for opening of the festival they would start to dance, impromptu performance would begin. The would Gypsies is a whole expression of these people, it should be said that their dance, music and costume differs according to the village they represent. Each team with their music, dance and colorful costumes would make an effort to appeal to the audience. The expression on their faces are indeed filled with brightness and pride to be gathered with fellow Gypsies which makes even the hearts of the audience glow with warmth. It was unfortunate that on the day of the preliminary contest the weather was unfavorable. The temporary stage set up in the school grounds could not be used. In haste the site was moved to the public auditorium. 
However other than the top of the tiny stage it was packed with Gypsies. The excitement of the audience went to its peak as soon as the contest began. Dancers going on the stage were in dead earnest from the very beginning . The hearts of the audience responded immediately to the movements of their dance and music, the entire room united in air of union. The Gypsies, even little children go on stage boldly showing their talents, not heeding the presence of hundreds of people in the audience. This is truly an art of music and dancing born within them handed down from their ancestors. From within these performers overflowing with talents those displaying the most appealing performance were chosen to perform in the final round of the contest.
There they displayed their utmost talents, those fascinating the audience most were presented the gold, silver and bronze awards. From within these recipients together with five dancers were crowned to go to Japan. From here the ROMAFEST DANCE ENSEMBLE delightful advance begins.

ROMAFESTに恋してⅢ
徳 元 裕 子

 2003年夏のROMAFESTはちょうど5回目という節目に当たり、 ティルグムレシュの町の野外劇場で盛大に開催されました。前日まで降り続いていた雨が嘘のように晴れ渡った空の下、 開会に先立ちパレードが行われました。 きれいに着飾った数百人のジプシーたちが町の目抜き通りを 楽団を従え、踊りながら歌いながら練り歩く様は圧巻で、 まるで音楽と色彩がうねる波のようです。 町を行く誰もが足を止め、目を見張ります。 あちこちでパフォーマンス合戦を繰り広げながら 既に興奮と熱気に満ちたパレードが会場に到着すると、 いよいよフェスティバルが始まります。
 最初は団体戦。 村を代表する踊りの名手と音楽家たちがチームを組んで挑みます。
それぞれのチームの踊りや衣装、音楽や楽器に彼らが暮らす地域特有のスタイルが有り、 見ていて飽きることがありません。
また若者だけではなく子供たちの演技や、昔鳴らした老人たちの 円熟した技が見られるのも楽しみの一つです。 個人戦には各チームから選抜された精鋭たちが参加します。今度はスタイルの違う踊手と一緒に舞台に立ち、 短い時間で自分をアピールしなければなりません。自分を表現することに長けているとはいえ、一瞬のうちに観客の心を掴み、 自分のペースにのせてしまう彼らのエネルギーには脱帽です。
 5年の歳月を費す中、ROMAFESTは音楽、踊りの名人たちが大勢参加する大会に成長し、今年の金賞受賞者は80人を数えました。
中には毎年大会に出場して優秀な成績を修めている有名人もいますが、 毎回ほとんどの受賞者が新しい顔ぶれです。
才能あふれるジプシーたちの層は遥かに厚く、 これからも続々と隠れた名人たちが登場してくる期待、大です。
 今後ますますROMAFESTから目が離せません!

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Falling love

with ROMAFEST Ⅲ

 In summer of 2003, it being the 5th. ROMAFEST, a grand festival was held at the outdoor theater of Tirg-Mures. Although it was raining until the day before it cleared up incredibly before the opening and under the blue sky there was a parade before the opening. The hundreds of Gypsies dressed up in their best costumes parading while dancing and singing with the band in tow was a spectacular sight like an undulating wave of color and music. People in the streets stopped and stared in wonder. Here and there contesting each other already filled with enthusiasm and excitement, they arrived at the grounds, so finally began the festival.  The Group contest was the first on the program . The most accomplished dancers and musicians representing their village teamed up into a group. In the Solo group best performers selected from each team performed. In the next showing a dancer would go on stage with a performer of different style of dancing, in a short time,
showing how much your style can appeal to the spectators. Although the performer is well versed in expressing its talent to appeal to the audience in a short time, I raise my hat to this feat and energy. During the elapse of 5 years the ROMAFEST musicians, dancers swelled to a great number, this year 80 people received the gold awards. Among them were people who are renowned, performing yearly, however most of the recipients are new comers to this contest.
There is great anticipation for Gypsies with hidden talents to participate in these festivals.
Hereafter one cannot take its eyes away from the ROMAFEST!!

徳元裕子 ROMAFESTに恋して Ⅰ 
ROMAFESTに恋して Ⅱ
ROMAFESTに恋してⅢ

リトアニア国立民族音楽舞踊団


フォークロールレポーター 増永哲男  1999

 リトアニアはバルト海南東岸に位置し、北をラトビア、東をベラルーシ、南をポーランド、カリーニングラードと接する人口371万5400人、国土6万5200平方キロ(北海道の78%の面積)の共和国です。1939年1月より40年8月までにカウナスに領事館が設置され、杉原千畝副領事が領事館閉鎖前にビザを発給し、ユダヤ人難民6000人の生命を救ったことは有名です。また四年に一度の、国民の半数以上が民族衣装で参加するリトアニア音楽祭は質の高さで特に有名です。次回は2002年です。彼らの合唱は本当にうまい、感心します。
 リトアニア国立民族音楽舞踊団"リエトゥワ"は1946年に設立されリトアニアの首都ヴィリニュスに本拠地をおいています。バルト三国唯一の国立およびプロフェッショナルの音楽舞踊団です。ポルカを主としたレパートリーの中に18世紀上流社会のヒストリカルダンスも含まれ、その衣装と踊りは華麗そのものです。エストニア・ラトビアの踊りもレパートリーの中に含まれています。バルト海対岸のスウェーデン、南のポーランド、リトアニアとの音楽と踊りのコントラストがよく見えてくるでしょう。全てのプログラムをカンクレス(膝の上で弾くチンバロン)・スクドゥチャイ(笛)・ビルビネス(太い縦笛)等のリトアニア伝統楽器のみを使用して演奏する音楽からはリトアニア文化の誇り高さを感じさせます。舞踊手24名 音楽舞踊手8名 音楽8名 芸術監督1名 衣装2名の計43名の日本初公演となります。

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http://www.folklor.com/ensembles/1999litoania/main.htm
リトアニア

マケドニアの踊りの素晴しさ、

精神性の高さ


郷民俗舞踊研究所 所長 

民俗舞踊家 郷 成仲 1996


  
 タネツ来日に寄せて 待望の、あのタネツが来日公演をすると聞いてびっくりすると同時に、新たな感動を覚えました。あの素晴しい踊りと音楽を日本で見たり、聞いたりできるのですから。
 マケドニアの踊りの素晴しさ、精神性の高さを見たのは、とあるフェスティバルで見たおばあさんでした。村から出てきたままの普通の洋服を着、杖をついて他の数人と共に舞台に登場しました。ただ一緒に出てきたと思っていましたが、なんと踊りの列の先頭にたち、スカーフを振りながら踊り出しました。曲がっていた背筋も伸び、数人を従え、誇りに満ちた踊りを見せてくれ、まさに本当の民俗舞踊の感動を与えてくれました。退場するときは、踊っていなかったように腰を曲げ、杖をついて歩いていました。もちろん、会場からは大きな拍手があったのは言うまでもありません。このような、踊りの雰囲気も、今回の公演での大きな見所ではないかと思います。ほかにも鮮やかな衣装とバラエティに富んだ楽器で、マケドニアの文化の真髄を見せてくれることでしょう。
 マケドニアは、東西の文化の十字路として他国との試練と忍耐の歴史を持っています。そのため、さまざまな文化的要素がまじり合い、独特の文化を育ててきました。例えば、タパンという大きな太鼓から繰り出される意表をついたリズムとそれに合わせた踊りとが絶妙のバランスを見せてくれます。音楽的にも意表をついたリズムが見られ、マケドニア独特の世界を見せてくれることと思います。
 私事で恐縮ですが、永い闘病生活にも光が見えてきて、再び元気に活動できる日が来そうです。この時期に私を支えてくれた増永氏を始め、多くの方々に紙面をお借りして感謝の意を捧げたいと思います

複雑なリズム、

「ため」のあるリズム


民俗舞踊研究家 先崎廣伸 1996

 マケドニア国立舞踊団タネツは、1949年に創始され、1950年6月に初コンサートを開いています。1948年から1950年は、旧ユーゴスラヴィヤで国立の舞踊団「コロー」や「ラド」などが次々に生まれた時期でもありました。第二次世界大戦直後より、都市部ではいくつものダンスグループが生まれはじめており、それらは、各々の出身地の踊りを競い合う(Cプロの様な)形からはじまって、お互いに教え合ってレパートリーが作られていきました。タネツは、これ等のグループからの選抜メンバーではじめられたので、当初のレパートリーとしては、コレオグラフされていないナチュラルなフォーダンスそのものを踊っていました。
 本来マケドニアは、その起伏に富んだ土地柄からか、複雑なリズム、しかも規則的にきざむだけでなく、「ため」のある深いリズムをもっているので、当時のレパートリーによるコンサートでも各国
で大好評を博しました。 1953年よりユーゴスラビアの一員として他共和国の歌、踊りを取り入れ始め、1960年代から70年代に組曲としてのレパートリーが確立しています。

タネツ
先 崎 房 枝  1996

 バルカン半島の小国マケドニアには、長い歴史と伝統に培われた文化が今も誇り高いマケドニア人達の心に脈々と受け継がれています。
 数々の苦難を経て得た独立後目覚ましく発展した首都スコピエ、良質のワインで知られるカヴァダルチ、古い遺跡の残るビトラ近郊、 ユネスコ世界遺産に登録されているオフリド湖とその周辺、そして何よりも人々の温かさはマケドニアの宝です。タネツ創立時のメンバーでコレオグラファーでもある アタナス・コラロフスキー氏の尽力により、日本で数多くのマケドニアの民族舞踊が踊られている事は愛好家の間では知られている事実です。 その素晴らしい踊り、音楽、コスチュームを通して彼らの誇るマケドニアを世界中に紹介してくれるのがタネツではないでしょうか。
 日本に居ながらにしてマケドニアを知る事の出来るこの機会に、是非自分の目で見、体と心で古き良きマケドニアを感じてみてはいかがでしょう。

 

http://www.folklor.com/ensembles/1997tanec/tanec.htm

マケドニア国立

タネツ民族音楽舞踊団


フォークロールレポーター 増永哲男  1996

 

 民俗音楽、民俗楽器、民俗衣装、民俗舞踊にはそこに住む人たちの文化があります。永い知恵と汗で作り上げたその文化はそれだけで芸術かも知れません。それらに触れたとき、そこに住まない人たちも、何の知識を持たない子供たちまでも拍手を繰り返すのは、人の普遍的な価値がそれに存在しているのかもしれません。そしてこの芸術は老若男女一緒に手をとって楽しめることが素晴らしいと思います。
 旧ユーゴスラビア時代にはコロー舞踊団にも勝るセルビアの踊りや、ボスニア、ツルナゴラ、クロアチア、スロベニアのバラエティに富んだレパートリーがたくさんありました。そして、なによりにもまして、アルバニアの踊り、トルコ人の踊りが素晴らしくて忘れられません。これらの踊りもタネツに希望いたしましたが、タネツは文化省直属の国立民族舞踊団であるため、その政策意向に沿わなければならないこと、そして彼らの殆どがマケドニア人であるため、少数民族系の踊りは次回に期待したいと思います。彼らは熱い心で気持ちを語っています。
 「私たちは、マケドニアとして初めて独立いたしました。私たちマケドニア人の愛唱した唄を聞いて下さい、そして、みんなで手を取り合う踊りを見て下さい。私たちのマケドニアを唄い踊ることができるこの喜びを、この舞台で、日本のみなさまと分かち合えることに感謝いたします。」
 マケドニア国立タネツ民族舞踊団 は1949年旧ユーゴスラビアの首都スコピエにて発足し、旧ユーゴスラビアの3大舞踊団(コロー民族舞踊団・ベオグラード・来日2回、ラド民族舞踊団・ザグレブ・来日1回)として長年活躍しました。第1次世界大戦後、マケドニアはギリシア北部、ブルガリア西部ピリン地方と今のマケドニアに3分割されました。今、激動の旧ユーゴスラビアから独立したマケドニアに、分割された地方に住むマケドニア民族の独立の求心力は今後しばらく目が離せません。
 紀元前アレキサンダー率いる王国からの流れを伝えるバルカンの音楽と踊りを、美しくも哀しいメロディーと強烈な太鼓のリズムで展開いたします。舞踊手32人 音楽8人 舞台監督1人 技術2名、計43名の来日となりました

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郷 成仲 1996マケドニア国立 タネツ民族音楽舞踊団
先崎廣伸「ため」
先 崎 房 枝
http://www.folklor.com/ensembles/1996lucnica/lucnica.htm

スロバキアにナズドラビエ
山 田 雄 一  1996.02.01 

 私とスロバキアの踊りとの出会いは、93年に来日した国立スロバキア民族舞踊団が初めてでした。当時チェコとスロバキアが別れた事さえ知らなかった私は、そのステージの宝石箱をひっくり返したような華やかさに唯々魅了され、その感動は日に日に心の底に積み重なっていきました。
 そして、自分の心に貯まったスロバキアの思いを胸に、去年の6月初めてスロバキアを訪れました。爽やかな気候、どこまでも続く草原、素朴で温かい人たち、それは自分が忘れてしまっていたお金では決して買うことの出来ない豊かさでした。あの感動はそういう風土や生活にフォークロアが根付いているからなのだ!と感じさせられました。ツアーの仲間たちからは、自分たちの最期はミヤバの大地に集い、ドクルトゥの音楽を聴きながら安らかにこの地に眠りたい、と言う冗談が出たほどです。
 私は今、世界中のフォークダンスを踊っていますが、自分の中でスロバキアが占める範囲が大きくなっています。いつの日か、先ほどの冗談が本当の事になってしまいそうな、そんな魅力的なスロバキアにナズドラビエ(乾杯)!と大声で言いたいのです。

ルチニッツァ

 

フォークロールレポーター 増永哲男

 チェコとスロバキアが円満に分離独立した93年からチェコは合理的に確実に、スロバキアはゆっくりと流れに任せて経済発展しています。この両国では民族舞踊も違っています。チェコはブラスバンドでビールを飲みながらポルカを踊り、スロバキアはワインを飲みながら弦楽器の奏でる音楽にのせてチャルダッシュを踊ります。
 スロバキアには4つの国立舞踊団があります。スロバキアの歴史から民族的に3つ分けられます。スロバキア民族系SLUK(スルク・93年来日)とLUCNICA(ルチニツァ)、ウクライナルシン系PLUS(プゥルス)とハンガリーマジャール系IFJUSZIVEK(イフユシベク・93年来日)です。このうちのSLUKは純プロフェッショナル舞踊団です。他3舞踊団は民族政策の中から誕生いたしました。PLUSは東スロバキア・プレショフに本拠を置きプロ化へと進んでいます。LUCNICAとIFJUSZIVEKはブラティスラバ市街中心地にあり、良き兄弟となっています。
 ルチニッツァ民族舞踊団は1948年ブラティスラバで誕生し、1970年大阪万博以来、四半世紀ぶりの来日となります。スロバキア国内の圧倒的な人気、海外公演では各国からの最大級の賛辞と評価からなる実績を誇ります。ブラティスラバ芸術舞踊大学(毎年入学定員12名・内訳:コレオグラフ科2名舞踊教育4名バレエ3名バレエ教育3名)民族舞踊科教授ノサ・ステファン氏および助教授バルガ・エルビン氏の指導のもと、主にその大学で学ぶ18才から26才の若さ溢れるダンサーで構成されています。ミス・チェコスロバキアも度々この舞踊団の中から選ばれるほどの美男美女の舞踊団でもあります。団への平均在籍期間は大学在学中の4年であり、卒業後は各地の学校・民族舞踊団または各界の中堅として活躍している様子は、国内での圧倒的人気も理解できます。定年までプロダンサーを務めるSLUKと対照的です。
 民族舞踊指導者の多くはこのルチニツァから育ち、スロバキアの舞踊を長年にわたり日本に紹介しているバルガ・エルビン氏(ルチニツァ在籍ダンサー歴12年はルチニツァ史上最長を誇る)はその代表といえます。
 幾世代のファッションにも通用するベーシックな民族衣装は東ヨーロッパのセンスを感じさせます。また、ひとつひとつの踊りのしぐさに娘の可愛いさが滲み出て、その瞬間の残像がいつまでもあなたのまぶたの奥に残ります。可憐に踊る娘たちと、スピードとテクニックを軽快に披露する若者たちの、若さに溢れ、パワーみなぎるステージは爽やかに私たちを魅了します。
 プログラムAはルチニッツアの代表的なレパートリーで、プログラムBは「遊び・仕事・恋」(糸つむぎの娘たち・結婚式等)をテーマに構成され、特にBプロは民族舞踊の柔軟性に富んだコレオグラフ(振付構成)の傑作集となっています。プログラムCは民族舞踊の生を見ることができる恒例の振付構成なしのノンコレオグラフプログラムです。舞踊手が楽団に曲を注文し、あたかも村の結婚式のごとく自由に唄と踊りを展開します。

 

 

 

 

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スロバキアにナズドラビエ 山 田 雄 一  
LUCNICA
1995 BUDAPEST

ハンガリ-国立ブダペスト民族舞踊団
BUDAPEST 1995

 ハンガリ-国立ブダペスト民族舞踊団は1958年設立され、ハンガリ-共和国首都ブタペストの中心、ブダ城の中に本拠地を置き活動しています。民主化以降の近年、芸術監督にジュラフスキ-・ゾルタン、音楽監督にケレメン・ラ-スロ-を擁し、大地からのフォ-クロ-ルを見事に展開、ハンガリ-の舞踊界を驚愕させています。パワ-あふれるステ-ジは我々にフォ-クロ-ルに潜む強さを教えてくれます。
 舞踊手17カップル34人、音楽6人、コレオグラファ-1人の計41名が来日します。また舞踊手の中の1カップルはトランシルバニア地方メ-ラ村から招待した夫婦です。プロ集団のなかにあっても本物の村の人達の踊りが優るとも劣らない技術、現存する村の踊りがいかに素晴らしいか、中央ヨ-ロッパの歴史の本と地図を傍らに置いてお楽しみください。 
 Aプロは地方・地域・村別に構成され、ハンガリ-国内と近隣諸国に住むハンガリ-人の踊り(主にトランシルバニア)や国内の少数民族(ジプシ-・ル-マニア人・クロアチア人他)の踊りも披露されます。
 Bプロ第1部は1年をクリスマス、正月、カ-ニバル、イ-スタ-、メイポ-ル、夏至祭、露つみの日、収穫祭等10の年間行事に関する踊りを、第2部は結婚式に行なわれるセレモニ-と踊りを教会から披露宴の翌朝までの12のパ-トと地方で構成し、フォ-クロ-ル愛好者に必見のプログラム。
 Aプロは水平軸で、Bプロは時間軸で構成されたプログラム
 Cプロは舞踊手が楽団に曲を注文し、自由に踊るノンコレオグラフプログラムです。 舞踊団全員が構成振付けなしで、あたかもその村人のごとく自由に唄と踊りを展開します。
 ・・・隣村から迎えられた花嫁とその親戚達、他の町や村から招待された知人達・・、お酒とご馳走は隅にかたずけられ、まず新郎の友人達が自慢の踊りを披露し拍手喝采を受ける。新婦の隣村の若者も自分達の村の方が素晴らしいぞ!と唄と踊りを披露、両方譲らず、最後に両方の村がハンガリ-一番とエ-ルを交換、男達は新しい親戚友人と乾杯! その間、娘達は仲良くカリカ-ゾを踊り、男達も可憐に踊る娘達にご挨拶、・・踊りは翌朝まで続けられる・・。
                       解説 増永哲男

http://www.folklor.com/ensembles/1995budapest/budapest.htm

続・ボス増永哲男

小 林 岳 丸 1996.01.04

 

  苦しい公演経営にも、いつも「フォ-クダンスは楽しいし面白い」と弱音を吐かないボス、増30永哲男について続編を。プログラムでは踊りの地方名、代表的な村の名前、踊りの種類名前が記されるように、「フォ-クダンスのオリジナリティを重要視した構成で、フォ-クバレェではなくフォ-クダンスをプロの舞踊団に踊ってもらおう!」、これがボスの日本公演制作の基本にある。

  各地のオリジナルな踊りを十二分に踊りこなすだけの・・・・・ ・・・ ・・・・・・・含んだ面白いツア-も企画している。 ここでツア-に楽しく参加するための、ボスとのつき合い方のアドバイスをひとつ。できるだけボスのリズムに合わせること、けっしてボスは私達のリズムに合わせようとしない。こちらが立ち止まったら最後、どんどん離され見えなくなってしまう。残された者に援助の手は出さない。きっとツア-で泣かされた方も一人二人では無いはずです。ボスの最大の欠点(個性)でもあり、幾度も泣かされ慣らされた私には良くも悪くも唯一無二の強力な牽引者でもあります。でも自然体でボスを掴まえていれば、彼の長年の経験からコ-ディネ-トされた15日間はお伽話のような夢のような世界にあなたを案内します。そのようなツア-参加の後、フォ-クロ-ルの世界にハメられ、ますます深みにハマって行く方をたくさん知っています。私もその中の一人なのです。東京のように・・・・

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続・ボス増永哲男 小 林 岳 丸
SLUK 1992

スロバキア国立スルク民族舞踊団 SLUK


 フォークロールレポーター 増永哲男 1992.10

 

 スロバキア民族の民族舞踊団である国立スルク民族舞踊団を中心に、スロバキアに住むマジャール人の民族舞踊を主とする政府管掌イフユ ・シペック(若い心)民族舞踊団の協力を得た共同制作公演となっています。政府管掌民族舞踊団としては二つあり、もう一つば1972年に来日公演したルチニッツァ民族舞踊団です。スロバキアに住む少数民族ウクライナ人、トイツ人、ジプシーの踊りもレパートリーに含まれ、全ての民族の踊りを公正に配した公演プログラムとなっています。ブラティスラバ近郊で本年1月下句から8回公開されたこの民族舞踊団は、スロバキアの歴史の中で初めての”真のスロバキア民族舞踊団”、”これからのスロバキア自身のあるべき道の指針である”という評価と期待をスロバキア全国へ大きく報道されました。スロバキア全国各地から公演希望か殺到し、日本公演からの帰国後の日程調整におわれています。
 ケルト人の住むこの地に1世紀頃ゲルマン人か移動し、5・6世紀頃にスラブ人が移住し、9世紀に大モラビア帝国が形成され、チェコ(ポヘミアとモラビア)とスロバキアは統一された。10世紀にハンガリーの支配化におかれたスロバキはアポヘミア王国として栄え、14世紀に神聖ローマ帝園、オ一ストリア帝国の支配化に入り全盛期を迎える。第1次世界大戦後チェコスロバキア共和国として再び統一された。1938年ナチスドイツに占領され、45年にソ違によって解放され社会主義化が進められる。社会主義の完成宣言をうたった新憲法が60年に制定された。民主化・自由化を求める声ば68年ビークに違し「プラハの春」といわれた。この運動を恐れたソ違ばワルシヤワ条約軍をもって武カ介入させ、以後民主自由化弾圧の時代に入った。

   89年、東欧の一連の民主化の波とともにプラハの学生デモから民主化運動ば高まり、11月の無血草命にて共産党支配は崩壊、市民フオーラムの八ペルが大統領に選ばれた。90年複数政党制を尊入し、6月の策1回自由通挙で市民勢力が圧勝し、そして92年6月、2回目の総選挙が行なわれた。スロバキアでは独立と経済改革の緩和を旗印とする民主スロバキア違勤(HZDS‐党首メチアル)が勝利した。8月、ブルノで開かれたクラウス・チユコ、メチアル・スロバキア両共和国首相会談で、チェコおよびスロバキア連邦共和国は本年(1993年)1月1日より独立と決まった。 チェコスロバキアの連邦解体は良織ある「協講離婚」となった。しかし、南のスラブ人違の連邦共和国、ユーゴスラビアは永くヨーロヅパであった国とパルカンであった国の結婚、またセルビア正教・カトリック・イスラム教の国の結婚、母国語と文字の違う国の無理な結婚であり、ぞの連邦解体は血で血を洗う「決裂離婚」となった

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Folklore Report 1993 slovensko slovakia folk dances

ドクルトゥのメロディ

(社)日本フォークダンス連盟顧問

御徒町フォークダンス研究会 

会長 佐野政治 1992.10


 7年前の春(1985年)、私はてっちゃん(増水哲男氏を私達は通称そう呼んでいる)に相談をもちかけました。「日本ではたくさんのフォ一クダンスか踊られているが、フオ一クロアが豊富なのにあまり紹介されていない国はどこだろうか?」てっちやんは「それはトランシルバニアとスロバキアです」と直ぐ答えてくれました。「将来にわたって指導を受けられる有能な指導者は?」「スロバキアにバルガ・エルビン(Ervin Varga)氏がいます」と。そして、てっちやんの即実行の紹介により 、その年の秋、バルガ氏の来日指導を実現させました。
 彼は一度に何曲も教える指導者とは違いドクルトウとチヤルダシユだけをたっぷりと時間をかけて教えました。一つ一つの踊りを大事に、厳しく教える氏の踊りに対する姿勢と、ドクルトウを最初に教えた深慮ある人柄(スロバキア国歌のメロディはドクルトウのメロディであることを暗に知らしめたように)とスロバキアの踊りの奥の深さに真に魅せられ、以後毎年指導を受けています。そのバルガ氏かスロバキア国立民族舞踊団のコレオグラフアーの一人として来日され、私達の習った踊りが目の前でくりひろげられることに喜びをかくしきれません。また日本全国の人達がスロバキアの踊りの素晴らしさに、諸手を上げて拍手喝采されることを確信しています。最後に増水氏はじめ各公演関係各位のご尽力に対し心から敬意を表するとともに、公演のご成功をお祈り申し上げます。

ドクルートのメロディ 佐野政治
ルーマニア国立マラムレシュ民族舞踊団
Folklore Report 1994 maramures Romania Folk dances

ルーマニア国立マラムレシュ民族舞踊団
相互交流を基本にした公演を
私たちは歩み続けます


フォークロールレポーター 増永哲男

 フォークロールレポートは1980年、虎の門での取材記録報告会としてスタートしました。不定期だった報告会も原宿(ラフォーレ原宿)に移り、定期的にレポートを行い、グループでテーマを決めたレポートの要請にも応じたものがレポート№001から100です。ビデオの普及が著しくなった1985年に、フォークロールレポート№101からビデオの配布となりました。
 №136の後4年間、フォークロールレポートは一時中断し、その間、東ヨーロッパでの取材記録を急ぎました。ルーマニアの革命(チャウセスク処刑)はトランシルバニアの村で村人とジプシーのクリスマスキャロルを聞きながら知りました。テレビもラジオも革命のニュースを流し続け、ニュースのない時は、革命前は決して有り得ないことでしたが、クリスマスキャロルと教会のミサが流れていました。
 1年のうち約4カ月を海外取材に、その半分を東欧に費やし続けたフォークロールレポートですが、今までの映像でのレポートの他に実演公演のレポートを追加します。また、私達への一方通行的な公演だけでなく、日本の人達と舞踊団との交流会・交歓会・講習会の機会を各地で多く持ちたいと思います。私達にも彼達にも生の相互レポートは多大の理解と好影響を与えるものと確信します。オリジナルなフォークロールに近いもの、資金的または精神的援助を必要とする舞踊団から日本への招聘を実現させていきたいと思います。
 92年1月ルーマニア国立トランシルバニア民族舞踊団を、93年2月スロバキア国立民族舞踊団を招聘いたしました。幸に皆様の熱いご支援を頂き、彼らは有形無形のたくさんの収穫を持ち帰ることができました。ここに、厚く御礼申し上げます。

 ル-マニア国立マラムレシュ民族舞踊団はル-マニア北部マラムレシュ県バイアマ-レ市に本拠し、80年からの友人であり、ディレクタ-兼コレオグラファ-のブチュウ・バレリウ氏の勢力的な中央政界への働きかけによって新生ル-マニア・プロフェッショナル舞踊団のリ-ダ-的存在となっています。91年8月には32年間親しんだ”マラムレシュ”の民族舞踊団名を”トランシルバニア”と改名いたしました。
 しかし、ル-マニア国立ムレシュ民族舞踊団(本拠地ティルグムレシュ)が1992年の来日公演用に”トランシバニア”の名前を91年2月に文化省に提出してありました。その後、”トランシルバニア”の名前争奪戦は現在のブチュウ氏率いる当舞踊団が獲得していますが、次の二つの理由により当舞踊団の日本公演では”マラムレシュ”の名前で今回公演いたしました。既92年にムレシュ民族舞踊団が”トランシルバニア”を使用したこと。この公演レパ-トリ-はトランシルバニアの紹介よりも全ル-マニアのル-マニア人の踊りを基調に展開しているためル-マニアフォ-クロ-ルのフラッグシップ的名前”マラムレシュ”を使用しました。

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ボス・増永哲男

小林岳丸 1993.01

   今回の公演のディレクター増永哲男はビデオテクニカの代表であり、文字どおり我々のボスである。彼を一言で絡介するのは不可能だが、あえていうなら「とにかく非常に強烈な個性の持ち主』である。あまりにも強烈な主義主張を持っている為に摩擦を生じる事もあるが、一度理解されればとことん共感をもたれるタイプである。時に理解するのが非常に困難なことがあるのも事実だが、ここにには書けない。

 今でこそ東欧諸国は自由化が進み、社会主義時代に比ぺれば訪間する事はかなり、いや非常に楽になった。しかしつい数年前までば西側諸国のジヤーナリストにば閉ざざされた門であった 。チャウシェスク政権下のルーマニアで、少数民族の村々をまわって撮影を続けている不審な外国人として秘密警察の尋問取り調べを受けた話などは何度聞いても冷や汗ものである。そのチャウシェスク政権が倒された時も増永ばいつものようにクリスマスの取材のためトランシルバニアの村の中にいた。村人と共に流血草命を内側から見つめていた 。新聞記者もテレビカメラも事件が起きた後に取材に出かける。日本でもずいぶんと報道されたが当然どれも今一つビンとこなかった。しかし彼らの生の声を聞いていたボスからの話からは、マスコミの報道などからは想像もつかない諸問題の裏の顔を知ることができた。もっともこの時期ばかりは徹夜で二ユース番組を見続けてボスの安否を気遣わねばならなかったが・……。

 それほどまでして東欧緒国へ通い続けてオリジナルの民族舞踊を求めて取材記録を続けている。何のために。三度のメシより好きな本物の踊りがそこにあり、そしてそのすばらしい踊りを毎日の生活の一部として暮らしている愛すぺき人たちがいるから。イースター、結婚式、クリスマスから新年にかけてと村の人々が踊りに打ち興じる時期、ボスの姿は日本には見られない,毎冬雪と氷の道を村から村へと車を走らせて新年を迎える。あたかも村人の一人であるかのように何の違和感も無く人々の間に溶けこんでいる彼の姿に永年の実績とその重みを感じる。

 7、8、9月とステージ・レポート部門は国内の発表会シーズンでてんてこまい。クラシヅクバレェ、モダンバレェ、ジヤズ・ダンスに日本舞踊と我々留守チームが日本でステージ舞踊の撮影に編集にと追い回されている頃、我らがボスは一人悠々とハンガリーにスロバキア、ユーゴスラビアにギリシヤ、ポーランドとフオ一クロールフエステイパルを撮影し 、その間にトランシルバニアの村々に遊ぶ。そして我々ば大好きなフオークロア・ダンスに関する土産話を首を長くして待ち続けるのだ。こうした長年の積み童ねの中で現地の村の人々と親交を深め、その踊りに魅了され数多くのプロフェツショナルの舞踊団、そして優秀なアマチュアのグループやそのディレクター、コレオグラファーたちと知り合い、ついに昨年(1992年1月)のルーマニア国立トランシルバニア民族舞踊団の日本公演を実現させた, 現地の優秀な舞踊団による、できる限り村の踊りに近いステージを 、日本の舞踊愛好者の方々に生のステージで見ていただきたいというフォークロールレポートの新たな活動のスタートである。

   既成の舞踊団のステージ・バレェ化されたプログラムを日本にもってくるのでは気が済まず、複数の舞踊団から優秀なメンパーを集めて新たに来日公演舞踊団を作ってしまう。既成プログラムの中の不適当な部分を片っ端から措摘して、極カ村のオリジナルに近い形の踊りに構成し直させる。こんなにうるさい招聘責任者はいまだかつて見たことも聞いたこともない。その作業の底に流れている「村の踊りへの限りなき熱い思い』と、現地の舞踊関係者をも納得させてしまう知識の豊富さに改めて敬服させられる。

 スロバキア国立民族舞踊団の日本公演に先立って公開された当地での試演公演はその全体構成の完成度が非常に高いことに対して政府、報道、舞踊関係者に絶賛された。その構成シナリオを書いたのは我がボス増永であることはいうまでもない。皆さんにも理屈抜きで楽しみ、そして感動して項けるものと信じて疑わない。お話ししたい裏話は星の数ほどありすぎるので機会を改めることにしよう。ただ一つだけ、ボスを筆頭にスタッフー同踊りをこよなく愛し、踊りが好きで好きでたまらないがゆえの踊りの撮影であり、それが高じての舞踊団の来日招聘であることをご理解いたたければ幸いである。1993

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小林岳丸 ボス・増永哲男

一歩一歩実現ヘ

御徒町フォークダンス研究会 佐 野 政 治 1991.10


  私はフォークダンスを踊るとき、ふと頭の中をよきるものがあります。それは、これらの踊りの本物か在るところに一度行ってみたい、一緒に踊ってみたい、そして私たちか踊っている踊りはどのくらい正しいのだろうかを確かめたいと思うことでした。海外へ行って勉強したときも、日本へ呼んで教わったときもできる限りオリジナルに近い方からと心かけていました。そして、現地の村に入り、実存の、または近年まで存在していたフォークダンスを調査したいと夢見ていました。
20数年前、私の例会・研究会を一日も休まず踊っていた学生がいました。
  卒業後彼は東ヨーロツパを中心に、取材検閲が厳しい社会主義政権の時代にも、辛抱強く毎年着実にフ才一クロールドキユメントを取材記録していきました。そして自分の足で確認し、今では膨大な記録と情報を基に、今までに来日した舞踊団とは一味違う、オリジナルに限りなく近い舞踊団から私たちに紹介してくれました。
  今回はその招購にもっとも困難なルーマニアから(なぜならば少数民族の素晴らしい伝統と文化はその国にとって隠したがるものだから)トランシルパニア民族舞踊団を、そして次回はと・・、期待せずにはいられません。私の夢、私たちの夢に向かって一歩一歩実現させていくてっちやん(増永哲男君)に感謝し、応援していきたいと思います。 

Cプロに期待

民俗舞踊研究家 先崎広伸

  良く訓練された踊り手達か、コレオグラフに従って一糸乱れず踊るのを見ることは素敵な楽しみであるか、時として、技術的にも特に見るぺきもののない、また訓練されたとは思えない人が、思うがままに踊っている時、それに大きな感動を覚えることがある。私など、異国の田舎に取材したり、あるいは各地で実地指導したりするとき、その様な感動にめぐりあう。彼らは決して上手なダンザーでなかったり、校術的にも稚抽だったりする。けれど、自分の為に、自分いっばいに踊っている。体いっはいに、心いっばいに踊りを楽しんでいる。 
  訓練された踊り手達が、勿論自分いっばい踊れない理由はないのであるが舞台等で、踊るとき、その「位置関係」や「解りやすさ」といったコレオグラフによって、逆に制限を受けてしまう場合か多いのだ。舞台上で長時問、自由に踊らせた場合、収拾はつきにくいレ観客としても何を見たらいいのか、何が起こっているのかも解らない、というのが普通で、それでコレオグラフの価値、必要性も出くるわけだか、敢えて、それを取り外レ観客、あるいは、コレオグラファーよりの非難も覚悟の上で、新しい感動の機会を作 ってくれた。
  そして、世界でもはじめての企画と思われるCブロで真のフォ一クダンスを紹介してくれた、 フォ一クロールレポーター増永君に拍手を惜しまない。

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folklore report

フォークロールレポートの

始まり

  フオ一クロールレポートは1980年、虎の門VlC(ヒクターインフオメーシオンセンタ一)での取材記録報告会としてスタートしました。不定期だった報告会も原宿(ラフォーレ原宿)に移り、定期的にレポートを行い、グループでテーマを決めたレポートの要請にも応じたものがレポート№001から100です。
  ビデオの普及か著しくなった1985年に、フオークロールレポートl01からビデオの配布となりました。

  №136の後4年間、フオークロールレポートは一時中断し、その間、東ヨーロツパでの取材記録を急きました。途中、ルーマニアの草命(チャウセスク処刑)はの村の中で村人とジブシーのクリスマスキャロルを聞きながら知りました。テレヒもラジオも革命の二ュースを流し続け、ニュースのない時は、革命前は決して有り得ないことでしたが、クリスマスキヤロルと教会のミサか流れていました。
  東欧の民主革命後のフオ一クロールは大きく変わりつつあります。特にフェスティパルは経済的自主運営を余儀なくされたため量も質も半減しました。チェコスロパキアのストラズニチ工、ピホドナ、ミヤパ、ヂェトパ、コシツェのフォークロールフェスティパルは瀕死の状態です。ルーマニアでは2年に一度の"クンタレア・ロマニア"(*1)は中止になり、他の国々のフェスティパルも同様に経済的に苦しんでいます。
  1年のうち約4カ月を海外取材に、ぞの半分を東欧に責やし続けたフオ一クロールレポートも大きく変革しようと思います。今までの映像でのレポートの他に実演公演のレポートを追加します。彼らへの資金援助にもなり、私たちにも生のレポートは多大の好影響を与えるものと確信しています。オリジナルなフオークロールに近いもの、援助を必要とする舞踊団から日本への招贈を実現させていきたいと思います。 まず最初に、№137としてルーマニア国立民族舞踊団を選択いたしました。



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フォークロールレポート増永哲男
 

◆1)クンタレア・ロマニアばルーマニア歌謡際と訳され、その中のフオークロール部門は6月第1金・土・日の毎朝8時から夜12時まで、モルダビア、オルテニア、ムンテニア、西、東トうンシルパニアの各雄方を順審に5週間かけて行われました。そのときに選ばれた海外派遺のための舞踊囲は世昇のフェスティパルで絶賛をばくし、いずれも最高の賞を獲得したことはいうまでもありません。私の一番印象にいつまでも残る唯一無二、想像を絶する強烈強大なフオ一クロールフェスティバルでした。

佐 野 政 治 一歩一歩実現ヘ
先崎広伸 Cプロに期待
フォークロールレポート公演のきっかけ
東欧民族舞踊団の危機
フォークロールレポート 増永 哲男 1992年8月
民主政変で激変

 旧社会主義政権下での優遇された民族文化政策は1989年東ヨーロッパの民主政変で激変いたしました。

 その時、フォークロールレポートは東ヨーロッパを中心にクリスマス・イースター・結婚式と、大小プロ・アマ問わず300を越える舞踊団を記録・取材して20年目になっていました。私もルーマニアの村でクリスマスを取材中、チャウセスクの処刑を知りました。それまで禁止されていた教会からのクリスマスミサがラジオ・テレビからその後ずっと流れていたのを忘れません。

政変以降の舞踊団は政府・労組・党からの援助が大幅にカットされました。舞踊団からの収入よりも政変以降自由となったプライベートなビジネスの方が魅力があり、多くの団員たちが去りました。衣装も散逸いたしました。自然消失する舞踊団も現れました。

 今まで私の取材を助けていただいた舞踊団も等しく困難に直面し、そして彼らに未経験のマネージメントの相談を受けました。その中でどうしても存続してもらいたい舞踊団、もっと元気を出してもらいたい舞踊団、今までのタガが外れて世界に飛び出せるチャンスがでてきた舞踊団、そしてフォークバレエではなくフォークダンスを基準として私は年に1っの舞踊団を選抜しています。

心を鬼にした選択

 多くの舞踊団を心を鬼にして割愛し、6っの総合舞踊団を招聘いたしました。この他にも選抜基準に該当する大事な舞踊団がたくさん残っています。東ヨーロッパには新体制での経済や民族問題にまだまだ困窮しています。この5年ではとうてい足りませんでした。さらに私もできる限りの援助を続けたいと思います。旧ユーゴスラビアから分離独立、隣国のボスニアとセルビアの戦乱の影響を受けながら国家建立の気運に燃えるマケドニアからタネツ民族舞踊団を97年招へいいたします。ポーランド・ブルガリア・バルト3国・チェコ・ジプシー・ロシア……援助すべき魅力ある民族舞踊団をさらに紹介していきたいと思います。

私たちの宝物

 この5年間に来日した舞踊団の団長ローリンツ・ライオシュ氏(92年トランシルバニア)やブチュウ・バレリウ氏(94年マラムレシュ)も「私たちの公演を見ていただいた喜びと、日本のみなさまとの交歓会・講習会・ツアーマネージメントからたくさん学んだ喜びは、私たちの宝物です。みなさまも私たちのところにも是非お寄り下さい。」といつも言っています。公演と交流は相互理解の基礎と思います。

 東欧の民族舞踊団との公演と交流という大仕事に没頭した夢のような5年間に、私を忘れ、心ならずもご迷惑をおかけいたしましたこと多々あると思います。お詫びの言葉もありません。

 そして、私を励まし助言を下さった素晴らしい仲間たち、また日本フォークダンス連盟および各支部の暖かいご支援を心より深く感謝申し上げます。今後、みなさまから勉強させていただいた知識と経験をフォークロールの世界にもっともっとお役に立てていきたいと思っています。

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東欧舞踊団の危機

リトアニア国立民族音楽舞踊団


フォークロールレポーター 増永哲男

 リトアニアはバルト海南東岸に位置し、北をラトビア、東をベラルーシ、南をポーランド、カリーニングラードと接する人口371万5400人、国土6万5200平方キロ(北海道の78%の面積)の共和国です。1939年1月より40年8月までにカウナスに領事館が設置され、杉原千畝副領事が領事館閉鎖前にビザを発給し、ユダヤ人難民6000人の生命を救ったことは有名です。また四年に一度の、国民の半数以上が民族衣装で参加するリトアニア音楽祭は質の高さで特に有名です。次回は2002年です。彼らの合唱は本当にうまい、感心します。
 リトアニア国立民族音楽舞踊団"リエトゥワ"は1946年に設立されリトアニアの首都ヴィリニュスに本拠地をおいています。バルト三国唯一の国立およびプロフェッショナルの音楽舞踊団です。ポルカを主としたレパートリーの中に18世紀上流社会のヒストリカルダンスも含まれ、その衣装と踊りは華麗そのものです。エストニア・ラトビアの踊りもレパートリーの中に含まれています。バルト海対岸のスウェーデン、南のポーランド、リトアニアとの音楽と踊りのコントラストがよく見えてくるでしょう。全てのプログラムをカンクレス(膝の上で弾くチンバロン)・スクドゥチャイ(笛)・ビルビネス(太い縦笛)等のリトアニア伝統楽器のみを使用して演奏する音楽からはリトアニア文化の誇り高さを感じさせます。舞踊手24名 音楽舞踊手8名 音楽8名 芸術監督1名 衣装2名の計43名の日本初公演となります。
 

http://www.folklor.com/ensembles/1999litoania/main.htm
LIETUVA

4つの国立舞踊団による
ハンガリアン・ジプシープログラム


フォークロールレポーター 増永哲男

 しかし、旧オーストリア・ハンガリー帝国時代の文化圏に住むジプシーたち、特にトランシルバニアのジプシー達は他の国に住むジプシーたちよりもいち早く市民権を得ていました。なぜなら、金もの細工や鍛冶屋の工芸、金銀宝石類の売買は古くから馬車とテントで旅するジプシー達のお家芸でした。また町や村のクリスマス・イースター・結婚式・居酒屋(チャルダ)の音楽演奏はそこ住み着いたジプシーたちの大きな役割でした。バルトーク、コダーイ、リストの音楽の中にもジプシーのイメージが多く登場します。いまでもトランシルバニア地方(特にセイケイ地方)のジプシーたちは普段も綺麗なジプシー衣装を着て生活しています。かれらはジプシーに生まれてきたこと、彼らの生活・文化を誇りにしています。
  そのようなジプシーの中からサースチャバシュ・ジプシーバンドがやってきます。トランシルバニアに住む人たち(ル-マニア人、ハンガリー人、ドイツ人、ユダヤ人、ジプシー)の地域に密着した力強い音楽を演奏します。彼らのお父さんもおじいさんも名バイオリン弾きでした。加えてこの村の楽士達は歴代名舞踊手でもあります。
 ブタペストからはアンド・ドロム・ジプシーバンドがやってきます。アンド・ドロムは身近な生活の中から水瓶、スプーン等、叩けるものは何でも楽器にしてしまいます。切なくも甘く、悲しくも美しく、ジプシーの言葉で、ジプシーのための音楽を披露します。ハンガリーでは1990年にジプシー議会がヨーロッパで最初に創設され、ジプシー語による教育のための学校も創立されました。特に文字を使わない感覚伝承を基本にするジプシーたちが芸術重視の教育を受けたときの成果は今から楽しみです。アンド・ドロムのリーダーであるイエノゥ・ジグゥさんはそのジプシー議会の議長でもあります。
 ハンガリーの4つの国立舞踊団(ハンガリー国立民族団、ハンガリー国立ブタペスト民族舞踊団、ホンベード舞踊劇場、BMドゥナ芸術団)とトランシルバニアからルーマニア国立マロシュ民族舞踊団から選抜された10組のプロ舞踊手20名がハンガリー国立民族舞踊団舞踊監督ジュラフスキー・ゾルタンさんのプログラム構成、総合芸術監督にバルガ・エルビンさんを迎えジプシーフォークロアを展開します。誇り高き生のジプシーの音楽を唄と踊りでご紹介します。

 

http://www.folklor.com/ensembles/2000hungariangypsy/main.html
2000 Hungarian Gypsy Program

ハンガリージプシーキャンプ
2023 夏   
根岸千春

 

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Folklore report 増永さんの、

見ていただきましょう!

 感じていただきましょう!

 ここもとってもすごいのよ、

 素敵な人たちが、素敵なものが

   いっぱいあるのよ、

 ハンガリージプシーキャンプ』

参加させていただきました。

増永さんとSzilviプロデュース。

踊りをたくさん見て体験して、ジプシー達がどうやってリズムと暮らして、大事な人たちと心を通わせるのか。 少しわかったような、まだまだ全然わからないような。 

また来よう。また連れてきてもらおう。また見せていただこう。

後ろの教会はかつて司教が滞在するほどの由緒ある教会。

2023Camp根岸千春

キャンプ・宿舎、Polinkaにて。 みんなの憩いの場のお庭。

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巨匠達へ。 「100万回のありがとうございます」を。

尊敬するSzilviと。 Nagyecsed全域に水を供給する塔をバックに。

繰り返しステップを見せてくれたマルビラ先生。 練習後の一枚。

突然夜中にやってきた、ハーロムセーク舞踊団のエンドレ先生と、ウルクーの名人レムスの孫のフニ。 ウルクーの踊りも教わりました。 最も大事なのは、フィギュアでは無い、どのような種類のステップを繰り出せるのかでは無い。リズムを感じてリラックスしてそれを楽しむことだ。それを強く君たちに伝えたい。と熱弁のエンドレ先生。
「はい。 肝に銘じます。」

巨匠たちのダンス

市長直々のNagyecsedの水との戦いと共生の歴史解説
ハンガリーの工業技術や工夫が満載。

ニールバシュバル・ジプシーグヤーシュパーティでの一枚。 

ギターのパパと歌手の美人娘。 前回のハンガリージプシーツアーで歌を聞かせてもらったtündérの家族だと判明。 繋がる繋がる深いぞ広いぞ彼らの才能。

市長直々による、Nagyecsedの特産品チーズと肉製品とワインの紹介。 

という名の素敵な宴会。

Szilvi 大好き

喜多君専属のダンスのエズキエル先生。
ブダペストの教育学部に通う先生の卵。 地元大好き。

博物館に飾ってあったプシー娘の写真。
Szilviのおばあさま。美人。間違いなく踊りの名手でしょう。

帰国後、昔のアルバムを見返してみた。 まだフィルムのカメラだったころ。 フォークロールも全然何が何だかわからなかったころ。 ただただ素敵な人達だったなと感動して涙してた頃。 

今年、強烈な思い出の中の人たちと次々に再会し、互いにそれを喜び合える。 それが増永さんのフォークロールツアーです。

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20年を超えて再会しました

Csinos néniとの再会. 本名は誰も知らない。Cdinosすぎて、そうとしか呼ばれないCsinosな女性。
「もう私には踊れる足が無いの。」と言って、Cigány nóta を披露してくれた。声は若い頃のままでした。遠くにいた子供たちがみんなこちらに振り向きました。

超再会シリーズ。 顔をじーーーっとみたら、
わかった!!! フェリだ! たくさんギターを弾いて歌ってもらった。 

Katiのお家の庭で。Cigány lecsó とBokoji 調理実習
早速日本でも作ってみます。 まずは大きな鍋を買わなくては!

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